<六義園>(りくぎえん)
本園は元禄15年(1702)武州川越藩主柳沢出羽守吉保が築造した庭園で、江戸の大名庭園中現存する日本で屈指の名園です。昭和15年8月、史跡名勝天然記念物保存法によって名勝の指定を受け、昭和28年4月特別名勝となり、日本でも特に優れた名園として大切に保存されている。
庭園の形式は江戸時代の庭園にみる所謂(いわゆる)回遊式築山泉水庭と呼ばれる。園の中央に池を設け、中島を置き島に妹背山があり、東南部に平坦な芝生、その他の部分には大小多数の築山が起伏し、園の北部に最大の築山藤代峠を設け、各所に桃の茶屋・滝口の茶屋・吟花亭・熱海の茶屋・つつじの茶屋・芦辺の茶屋等あづまやを配している。その後改修、また今次大戦により焼失したものもある。また、この庭園の作庭については、吉保自身の培った文芸趣味の思想に基づき、自分から設計7年余りの歳月を費やし池を掘り、山を築き流れを見せて、紀州和歌の浦の景勝を、あるいは「万葉集」や「古今集」から名勝を選び園内に八十八景を映し出すという園の構成である。
六義園の名は、中国の古い毛詩に記されている賦・比・興・風・雅・頌の六義に由来する和歌の六体によるもので、吉保自身「むくさのその」と呼ばせ、館を「六義館」と書いて「むくさのたち」と読ませている。
このような庭園も吉保が没した後は荒れる一方であったが、文化7年にいたり漸く整備され、明治10年頃付近の藤堂・安藤・前田の各氏邸とともに、岩崎彌太郎氏の別邸の一部となるに及んで再び昔の美しさを取り戻し、昭和13年1月岩崎氏から庭園を中心とした3万余坪を市民の鑑賞・休養の地として、東京市に寄贈され同年10月東京市の管理のもとに公開され今日にいたっている。 |