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幕末までは松平肥前守等の屋敷地で、明治初期には陸軍練兵場となっていたところだった。当初から近代的な「都市公園」として計画・設計・造成された本格的な公園であると同時に、日本初の「洋式庭園」として明治36年(1903)6月1日に開園した。(開園面積;161,636u)文化の先駆者としての公園設計者(本多静六等)の意気込みが随所に感じられる。そして、それは今日に伝えられ、広く利用されている。
今日に至るまでは、関東大震災や太平洋戦争により改修等を行ってきたが、心字池・第一花壇や雲形池周辺は開園当時の面影がそのまま残っている。花壇には一年中、色鮮やかな四季の花が咲き、公園を訪れる人々の憩いの場になっている。
<大噴水>
この噴水は昭和36年(1961)9月、日比谷公園における戦後復興のしめくくりとして設けられた。噴水池は三段の水盤から成り、上段は直径8m、中段は14m、下段は30mある。また、噴水設備はコンピュータ制御により様々な変化を見せ、夜には水中照明により灯す。 |
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<鶴の噴水>
この噴水は、明治38年(1905)頃東京美術学校(現在の東京芸大)の津田信夫、岡崎雪声両氏に依頼製作したもので、公園等での装飾用噴水としては、日本で3番目に古いものとのことです。(1番目は長崎諏訪神社、2番目は大阪箕面公園)
当初は、鶴と台座とも銅製だったが戦時中の金属回収で台座が石造りとなったものの、水面に薄氷が張り鶴の像につららが下がる景色は、当公園の冬の風物詩となっている。 |
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<南極の石>
この石は、南極昭和基地から4qの地点にある、東オングル島の慎太郎山(標高40m)で、日本の南極観測隊が採取した。重さは150sの片麻岩です。南極観測船「ふじ」が持ち帰り、昭和41年(1966)4月14日、この公園に設置された。
<石橋>
この石橋は、芝増上寺霊廟の旧御成門前桜川にかけてあった石橋の一つで、市区改正(現在の都市計画事業)の道路構築の時、ここに移したと伝えられている。素朴なうちにも力強く、江戸時代の彫りの深さを漂わせている。 |
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<旧日比谷公園事務所>
旧日比谷公園事務所は、わが国最初の洋式公園であった日比谷公園の管理事務所として、明治43年(1910)11月に竣功した建物である。設計者は東京市に勤める技師福田重義であった。
建物の規模は桁行12.6m、梁間7.2m。現在、内部は1階部分に倉庫・物入・厨房・便所、2階部分にベランダ・ホール・展示室・事務室などが設けられている。
昭和51年(1976)に公園資料館として使用するために内部を改造しているが、構造の躯体、軸組、外観の変更は僅かでよく旧態を留め、2階の展示室にある腰板・棹縁(さおぶち)天井・ベイウィンドーの腰掛け、また階段などに当初の名残がある。
この建物は、洋式の日比谷公園に相応しいように設計されたドイツ・バンガロー風の瀟洒(しょうしゃ)な建築物で、明治期の数少ない近代洋風建築の一つとして建築史上貴重である。(東京都指定有形文化財)
<水飲み>
この水飲みは、日比谷公園開設当時(明治36年)のものです。鋳鉄製で重厚ななかにも細かな装飾が施され、デザイン的にも見応えがある。
また、馬も水を飲めるような形に作られており、陸上交通の重要な部分を牛馬が担っていた当時が偲ばれる。 |
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広い園内を散策していると、菜の花の群落や満開のオオカンザクラ(大寒桜)に出会う。 |
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ネモフィラの群生(ネモフィラの画像提供は I・H さん) |
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