清澄庭園は、泉水・築山・枯山水を主体とした「廻遊式築山林泉庭園」で、江戸時代の大名庭園の造園手法を明治時代に引き継がれ、近代化して完成したものです。
この地の一部に江戸の豪商・紀伊国屋文左衛門の屋敷があった、と言われている。享保年間(1716〜1736)には、下総国関宿城主・久世大和守の下屋敷となり、この頃に庭園の原形が形作られた。
明治11年(1878)、岩崎弥太郎が荒廃していたこの邸地を含む3万坪(約10万u)を買い取り、明治13年(1880)4月「深川親睦園」と命名し、三菱社員の慰安や内外賓客を招き、招待の場として用いる。
岩崎弥太郎亡き後、さらに岩崎弥之助(弥太郎の弟)が庭園に手を加え、隅田川の水を引いた大泉水とし、全国から取り寄せた奇岩名石を配した造園工事が行われ、明治24年(1891)、明治時代を代表する庭園が完成された。
関東大震災ではこの地域は大被害を被ったが、この庭園は救いの場となり、災害時の避難場所としての役割を果たし、多数の人名が助かった。
岩崎久弥(弥太郎の嗣子)は、こうした庭園の持つ防災機能を注視し、被害の少ない現在の庭園部分(「深川親睦園」時代の約半分)を東京市に寄付した。 |