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秀忠の生母は家康の側室西郷の局で秀忠の出産は同下屋敷で行われた。そのとき使われた産湯の井戸を誕生井戸という。
徳川秀忠は、家康の三男に生まれる。長兄信康が織田信長の命で自刃し、次兄秀康が豊臣秀吉の養子となったことにより、世子となる。関ヶ原の合戦に遅れて到着したため参戦せず、家康の叱責をこうむるが、1605年には将軍位を譲られる。
家康の死後は大名領知宛行状(あてがいじょう)の発行、娘東福門院の後水尾天皇への入内、貿易の統制・管理、さらには39家にもおよぶ大名を改易するなど、将軍権力の確立に手腕を振るった。(1579〜1632年 在職 1605〜1623年) |
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