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西行法師(元永元年(1118)〜建久元年(1190)は、平安末期末期の僧侶であり、新古今集の代表的歌人の一人である。出家する前の俗名を佐藤義清(さとうのりきよ)といい、もと鳥羽上皇の北面の武士であったが、保延6年(1140)に出家し諸国を行脚(あんぎゃ)して全国各地の風光明媚な自然を愛で、和歌を詠んだ。
この地は、西行が「蔡華園院」(西行草庵)を営み、終焉の地であったところと伝えられている。
明治時代中頃には荒廃を極めていたが、明治26年(1893)に、富岡鉄斎が勧進文(寄付を呼びかける文)を書き、庵主小文法師が浄財を募り、当時の京都市長内貴甚三郎らの尽力により再建されて現在に至る。
当庵は、母屋(浄妙庵)、茶室(皆如庵)からなる。茅葺きの母屋は、大徳寺塔頭真珠庵の別院を移したものである。皆如庵は、北野の久我別邸より移された桃山時代の名席で、円窓床と道安囲い点前座が有名である。
また、正面の西行堂には歌僧西行法師、和歌四天王の一人頓阿上人(とんあしょうにん)、冷泉為村、小文法師の4人の木像が安置されている。西行(山家集)
願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃 |
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