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<神田上水取水口の石柱>
徳川家康の江戸入り(天正18年−1590)の直後、井の頭池から発する流れに、善福寺池、妙正寺池の流れを落合であわせ、関口で取水して水路を定めたのが神田上水である。
井の頭池を源流とするわが国最初の神田上水は、関口の大洗堰(現在の大滝橋あたり:最下段の画像)で水位をあげ、上水路(白堀)で水戸上屋敷(現後楽園一帯)に入れた。そこから地下を樋で、神田、日本橋方面に給水した。この大洗堰の取水口に、上水の流水量を調節するため「角落(かくおとし)」と呼ばれた板をはめこむための石柱が設けられた。
ここにある石柱は、当時のもので、昭和8年(1933)、大洗堰の廃止により撤去されたものを移した。上水道として最も古い神田上水の取水口である大洗堰の跡は、永く歴史に残したいものである。 |
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大正8年(1919)、東京市はこの地を江戸川公園として整備し、史跡(大洗堰)の保存に努めたが、昭和12年(1937)になり江戸川(神田川)の改修により失われたので、翌年、堰の部材を再利用して由来碑を建てた。
上の碑文は、その文面です。由来碑は既に失われたが、近年この碑文のみが見つかったのでここに設置した。 |
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日本最初の上水といわれる「神田上水」は、江戸時代の初期、徳川家康の命をうけて、大久保藤五郎忠行(主水)が開いた。井之頭池を水源として、目白台下の現在の大滝橋(下の写真)あたりに堰(せき)を設け、川の水位をあげて上水として流し、余った水は、神田川(江戸川)に流した。 |
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上水は、水戸屋敷(現在の小石川後楽園の地)を通し、現在の水道橋東側で、神田川を懸樋(かけひ)でわたし、神田・日本橋方面に給水した。この上水は、江戸時代から長い間、江戸・東京市民の生命の糧として大きな役割を果たした。明治34年(1901)6月、飲料水としての給水を停止し、その使命をおえた。 |