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近藤源八正憲は甲州流軍学を修め、千石番頭の重職あった。源八の妻は、大石内蔵助良雄の叔母にあたり、大石家とは親戚関係にあったが、最初から義盟には加わらなかった。源八の父である三郎左衛門正純も甲州流軍学者であり、兵法に則って赤穂城築城の縄張り設計を行った。
近藤源八宅跡長屋門は、「源八長屋」の愛称で親しまれているが、現存している建物は長屋門の長屋部分である。門部分は、大石良雄宅跡長屋門の斜め向かいにあったと考えられ、長屋部分を四戸分に別け、それぞれ下級武士の住宅として使われていた。
現在は、その内の北端部の一戸とその南隣りの一戸の北端の一部屋が残されている。この長屋門は、18世紀以降に建て替えられたものと推察されるが、当時は総長21間半(約42.3m)の長大な長屋門であった。
城内に残された江戸期の建物は、大石良雄宅跡長屋門とこの近藤源八宅跡長屋門のみであり、礎石や、柱材、梁材、天井、瓦、壁等の一部を保存し、平成11年3月に解体復原整備が完了した。
入り口部分の土間は、炊事場であったと考えられ、煙出し窓や、天井周囲に残された煤(すす)が当時の生活ぶりを偲ばせている。また、簀子野地天井(すのこのじてんじょう)は建築当時の姿を保っており、屋外にある赤穂旧上水道の汲み出し枡(くみだします)とともに人気が高い。 |
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<赤穂藩上水道の汲出井戸(汲出枡)>
赤穂藩上水道は、下津井藩主池田忠継の代官、垂水半左衛門の指揮のもと、慶長19年〜元和2年(1714〜1616)の3ヶ年で完成させ、神田上水(東京都)、福山上水(広島県)と並ぶ日本三大上水道の一つです。
上水道は、のちの松平時代、浅野時代に形が整えられ、森時代に受け継がれ、さらに明治・大正・昭和と赤穂の町を潤し、昭和19年(1944)新上水道にその役目を引き継いだ。
赤穂の城下町は、熊見川(現在の千種川)河口デルタ上に形成されたため、海水の混入する堀井戸では、飲料水が確保できず、約7q上流の千種川から取水し、導水路で運ばれて水が、ここから約600mのこし場で配水管に分岐・配水されていた。
この武家井戸は町家井戸と同じく、配水管からさらに給水管によって、各戸に給水されていた状態をそのまま保存したものです。赤穂藩上水道は、共同井戸だけでなく町人・武士を問わず各戸まで給水されていたのが特色です。なお、旧上水は今でも一部の地域で灌漑用水や打ち水に使われている。 |
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