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新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋の一帯は、通称「山吹の里」といわれている。これは、太田道灌が鷹狩りに出かけて雨にあい、農家の若い娘に簑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいる。
後日、「七飯八重 花は咲けども 山吹の みの(簑)ひとつだに 無きぞ悲しき」(後拾遺集)の古歌に掛けたものだと教えられた道灌が、無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだという伝承で、「和漢三才図会」(聖徳2年・1712)などの文献から、江戸時代中期の18世紀前半には成立していたようです。
「山吹の里」の場所については、この地以外にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町などとする説があって定かではない。ただ、神田川対岸の新宿区一帯は、昭和63年(1988)の発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や、鎌倉街道の伝承地などが集中しており、中世の交通の要衝地であったことは注目される。
この碑は、神田川の改修工事が行われる以前は、面影橋のたもとにあったが、碑面をよくみると「山吹之里」の文字の周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、この碑が貞享3年(1686)に建立された供養塔を転用したものであることがわかる。 |
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