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<関ヶ原合戦 徳川家康最初陣地>
慶長5年9月15日未明に、家康の配下3万余は、ここ桃配山周辺に陣取り、家康はこの山頂において、大馬印を高々と掲げ指揮にあたった。最後の陣地に移るまで、各陣営からの報告をもとに、しきりと作戦会議が開かれたと思われる。ここにある2つの岩は、家康がその折りにテーブルと腰掛に使用したと伝えられている。
<桃配山>
天下をわける壬申の大戦は1300年程前であった。吉野軍を率いた大海人皇子は、不破の野上に行宮をおき、わざみ野において、近江軍と向き合っていた。急ごしらえの御所に、皇子がはいったのは、6月の27日である。野上郷をはじめ、不破の村人たちは、皇子をなぐさめようと、よく色づいた山桃を三方にのせて献上した。「おお、桃か。これは縁起がいいぞ!」皇子は、行宮に着くが早いか、桃の出迎えにあって小おどりして喜んだ。紅の小さな山桃を口に含むと、甘酸っぱい香りが口の中いっぱいに広がる。皇子は、はたとひざを叩き、不破の大領を呼んだ。「この不破の地は、山桃のあると聞く。なかなか味もいい。どうだろう。私はこの桃を軍団兵士みんなに1固ずつ配ってやりたい。戦場における魔よけの桃だ。これを食べて戦場に出れば武運百倍。もりもり働いてくれよう。大領、この近郷近在の山桃を全て買い上げ、軍団兵士みんなに私からの桃だと言って配ってくれ」大領、宮勝木実は胸をうたれて平伏した。木実は行宮所在地の大領(郡長)として御所をたて皇子をおまもりしている。「ありがたいことでございます。戦勝につなぐ縁起のいい桃。兵士の命を守る魔よけの桃。天子様から賜った尊い桃。全軍の兵士はもちろん、村のものたちも涙を流して喜び存分の働きをしてくれるでありましょう。」この時、木実が確信したとおり、この桃をおしいただいた数万の将兵の士気は、いやがうえにも高まり連戦連勝、ついに大勝を果たしたのであった。この桃の奇縁によりこの桃を配ったところを桃配山とか、桃賦野と呼んで今に伝わっている。
900年の後、徳川家康は、この快勝の話にあやかって桃配山に陣をしき、一日で天下を自分のものとした。 |
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