|
|
|
|
|
|
深い木立と、重厚な屋敷構えで知られている角館町は、元和6年(1620)角館地方を領していた芦名義勝によって造られた。三方を山に囲まれ、南の玉川筋によって仙北平野に開いている地形は城下町を形成するため、最も適している場所であった。
町を造るには、現在の古城山(城跡)を北端として、南に向けて三本の道路を設定し、これを中心に造ったと言われている。
町の中央部が、幅25m、東の花場山の麓から西を流れる桧木内川まで、町の最も狭い部分を分断する形で武家町と商人町が区分されている。
北側に位置する武家町は、深い木立が覆い、一方、南の商人町は町並みがびっしりと埋めて対照をなしている。町が造られた当寺の元和6年には、武家屋敷80戸、商家350戸と数えられ。秋田藩の支藩としては最も大きな城下町を形成していた。
以来380年余、町の形は大きく変わっていないし、特に内町という武家町は、道路の幅から曲り角一つまで、そのまま残っている。まさに角館は歴史の生きている町でもある。(ガイドマップ参照) |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
武家屋敷に彩りを添える枝垂れ桜は、約340年前、佐竹北家が入分してから程なく植えられたもので、樹齢200年以上の樹など400本余りが華麗に咲き誇る。昭和49年(1974)に国の天然記念物に指定された。
<伝統的建造物群保存地区>
歴史的環境を現代に伝える集落・町並みは我が国の歴史と文化の理解に欠くことのできない貴重な文化遺産です。本町の表町・東勝楽丁の武家屋敷町並みは、城下町の歴史的環境を伝える価値の高い町並みとして昭和51年(1976)に「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
<武家屋敷 岩橋家>
岩橋家は、北関東の名門会津黒川城主芦名氏(70万石)の重臣であった。天正17年(1589)芦名氏が伊達政宗に敗れ常陸の佐竹氏を頼り常州江戸崎城4万8千石を与えられ岩橋家も芦名氏に随従して江戸崎に移った。
関ヶ原戦後、慶長7年(1602)佐竹氏の出羽移封とともに芦名氏も出羽に下り角館城1万5千石を与えられた。岩橋家は一時江戸崎を立ち退き津軽氏に300石で仕官していたが、主君の角館居住とともに再び芦名氏に帰参し角館に居住した。
芦名氏が承応2年(1653)3代にして断絶するに及んで代わって角館支配となった佐竹家に召し抱えられ(66石)、廃藩に至るまで仕えた。
この建物は、江戸時代末期に改造され、屋根も萱葺きから木羽葺きにかわったが、角館の中級武士の生活様式を今に伝えている。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
<角館冬がたり> |
|
|
<角館冬がたり>
栗がこんがり焼けています。囲炉裏(いろり)の火が懐かしい。冬の角館のひととき。角館の歴史、枝垂れ桜、冬の暮らし、角館の美味しいもの−−−。角館の歴史案内人が、じっくり語る30分。(無料です)
「冬がたり エグ聴いでケダ証明書」
あんたナバ このサッピドコ 角館サ来てケダ”角館の冬がたり”エグ聴いでケダンシナ。冬の様子 ちょんまげ時代の事 枝垂桜の話ッコなどチャント聴いでケダ事を照明するンシ。
マダ ナデッカデ オザッテタンヒ
平成19年1月1日
かくのだて歴史案内人組合 「印」 |
岩橋家の一間、囲炉裏を囲んで武家屋敷の歴史や角館でなぜ枝垂れ桜が咲いているのかなど、ゆったりと流れる時間の中で聴く。30分が短かった。心に残るいい話であった。ありがとう。感謝。帰り際に、「冬がたり エグ聴いでケダ証明書」をいただく。
雪に覆われた武家屋敷を見たくて角館を訪れる。以前写真などで見て、いつかこの目で確かめたいと思っていた。訪れた日は、雪はあまりなかったが、武家屋敷の広い通りには驚く。江戸時代、人と馬、荷車しか通らない時代にこれほどの広さの通りを造った感性に脱帽である。屋敷に植えられている枝垂れ桜が咲く季節に再度訪れたいものだ。 |
|
|
|
|
|
<角館のシダレザクラ 152本> 国指定天然記念物
閑静な武家屋敷の緑の樹木を背景に優雅に咲くシダレザクラは角館の春を彩る。
角館のシダレザクラは、明暦2年(1656)角館の所預りとなった佐竹義隣(さたけよしちか)の嫡男義明(よしはる)の妻が、お輿入れの際に生家の京都三条西家から持ってきた桜の苗木3本が植え継がれて増えたと伝えられている。
樹種はエドヒガンのシダレとなったもので花色は白系と淡紅系の2種がある。このサクラは、主に表町、東勝楽丁などの武家屋敷に植えられ、樹齢二百数十年の巨木から若木まで200本を超え、このうち152本が天然記念物に指定されている。市街地内に古くから受け継がれた群として他に類例をみないものである。
(桜の本数は武家屋敷中心の本数と桧木内川沿いの桜なども含めた本数とがあるので数字に差がある) |