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<生の松原元寇防塁>(いきのまつばらげんこうぼうるい)
文永11年(1274)、元(モンゴル)軍は博多湾に侵入、上陸して鎌倉幕府軍と激戦を繰り広げた。幕府は元軍の再来襲に備え、九州の御家人に命じて博多湾岸に約20qにわたる石塁(元寇防塁)を築かせた。
生の松原地区の石塁は海側に石を積み上げ、陸側は版築(はんちく)と呼ばれる工法で土と砂を突き固めて構築されている。高さは約2.5mで、陸側は一段下がって段階状になっている。
蒙古襲来絵詞(えことば)には、この地区を担当した肥後(現在の熊本県)の竹崎季長(たけざきすえなが)一行が石塁と共に描かれている。 |
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<「蒙古襲来絵詞」」に描かれた元寇防塁>
生の松原地区の元寇防塁は、肥後国が担当して築造し、警備した。当時の石築地(いしついじ)(元寇防塁)と「弘安の役」の警備の状況を示すのが「蒙古襲来絵詞」(「竹崎季長絵詞」とも呼ばれている)です。
二度の元寇に際し、筑前に駆けつけ、陸でまた海で元軍と戦った肥後国御家人竹崎季長の活躍を描いたこの絵巻物(上下二巻)は、13世紀末から14世紀初めの成立といわれている。上巻は主に「文永の役」(1274)、下巻は「弘安の役」(1281)の場面を描いている。
下巻のはじめに、ここ生の松原地区の元寇防塁の前を、従者を従え、馬で東へ進む竹崎季長の姿を描いている。防塁の上には菊池武房をはじめとした肥後の武将が戦闘態勢で、海の方を見つめている。おそらく、博多湾に所狭しと浮かんだ元の軍船の動向を探っているのでしょう。季長は東の十郎川河口あたりで船に乗り、元船に攻撃をしかけるのでしょうか。
防塁は八段程度の石積みに描かれ、色の違いで石材を区別している。これは防塁を描いた最も古いもので、大変貴重な資料です。
この説明板では、宮内庁のご協力を得て、「蒙古襲来絵詞」下巻の生の松原元寇防塁の場面を、ほぼ原寸大で示している。 |
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<元寇防塁> 国指定史跡
1274年、元は900艘の軍船と2万8千人の軍兵で博多湾に攻め込み、その西部に上陸し、九州の御家人たちと激しい戦いを繰り広げた。(文永の役)
その後、鎌倉幕府は元の再度の来襲に備え、九州各国の御家人に命じて、1276年3月から約半年間で、西は今津(掲載画像・動画の撮影場所)から香椎まで博多湾の海岸沿い約20qにわたり石築地(元寇防塁)を築かせ、その場所を警備させた。
1281年、元は再び日本を攻めたが、この元寇防塁や武士の元船への攻撃に阻まれ、博多の地には上陸できなかった。(弘安の役)
元寇防塁は、昭和6年(1931)市内7地区が国の史跡に指定され、保存されている。 |
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<生の松原地区元寇防塁の修理・復元>
生の松原地区の元寇防塁は、昭和43年(1968)3月に発掘調査し、その後保存処理をして露出展示を行ってきた。しかし石材の劣化や一部崩れが見られるようになったため、今回その修理を行うと共に、中央部分約50mを当時の高さに復元した。
この地区は前面(海側)に石を積み上げ、後ろは土と砂を突き固めている。発掘調査の結果などにもとづき石積みは約2.5mの高さに、また頂部の後ろには一段下がった通路を復元した。
前面の石材は中央部付近から西側ペグマタイト(巨晶花崗岩)、東側が砂岩と使い分けされており、復元にあたっても同じ石材を揃えた。復元両端部は断面構造がわかるように仕上げている。なお、防塁後方はさらに南側に傾斜するが、現状でとどめている。(平成12年(2000)福岡市教育委員会 説明板)
動画には、海からの風音(風切り音)が耳障りと感じるほど録音されている。なぎ状態よりこの方が臨場感が出ていると感じそのままの状態で掲載している。 |