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<山崎宗鑑冷泉庵跡>
宗鑑は本名を範重(のりしげ)といい、寛正6年(1465)滋賀県栗太郡常盤村志那で生まれた。彼の家は志那地区を支配した志那氏で足利将軍義尚に一族で仕えていた。しかし将軍義尚が佐々木高頼との合戦に破れたため世の無常を感じて剃髪し、入道となり生地を離れて大山崎に隠棲したのである。ここに山崎宗鑑が誕生する。
彼は八幡宮社頭で月例会として開かれていた連歌会の指導や、冷泉庵での講を主催する一方、世に知られた「犬筑波集」を生み出した。また書も宗鑑流として多くの人々から珍重された。碑文の
うつききて
ねぶとに鳩や郭公(ほととぎす)
は掛詞を巧みに使い、その手法は後の俳諧の基礎となった。 |
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<行基と山崎院>
奈良時代の高僧行基は聖武天皇の命で東大寺の建立に尽力した。また、機内に49の寺院を建立し、橋を架けたり堤を築いたり池を穿(うが)ったりしたといわれる。行基は神亀2年(725)に大山崎に至り、淀川に山崎橋を架橋、その後、橋を管理し行基の教えを広める道場として天平3年(731)に山崎院を建立した。
平成元年(1989)・平成11年(1999)に行った発掘調査で、奈良時代の唐草文彩色壁画片、半丈六(8尺)の如来形などの塑像片、せん仏、人名を刻んだ瓦、緑釉陶器火舎と釜など、院に係わる多くの遺物が出土した。とりわけ唐草文彩色壁画片は、発掘調査出土品としては米子市の上淀廃寺に次ぎ国内2例目のもので、山崎院の堂内が色鮮やかな壁画で装飾されていたことを物語る貴重な資料となった。
<大山崎瓦窯跡>
大山崎瓦窯跡は平成16年度(2004)に当地で行った発掘調査で発見された。当地付近では数十年前から平安時代前期の瓦が出土することが知られ、平安時代に設けられた山崎駅や嵯峨天皇の河陽離宮及び山城国府に関連する建物の遺構に関わり出土するものと考えられていた。
発掘調査を始めてしばらくすると焼土に混じって、平瓦・丸瓦が大量に出土し、次いで瓦を焼く窯の一部と考えられる遺構が発見された。調査が進行するごとに窯の数は増え、最終的に六基が検出された。瓦窯内部や周辺からは平瓦。丸瓦の他、軒瓦が出土した。その文様から本瓦窯は9世紀前〜中葉に操業していたものと考えられる。また、平安宮朝堂院をはじめ、嵯峨天皇の離宮である嵯峨院、河陽離宮等の推定地から同箔の軒瓦が出土しており、大山崎瓦窯は宮殿の修理及び嵯峨天皇の離宮造営に伴い国営の瓦窯として開かれたものと考えられる。
これまで平安京造営時やその後の修理に伴い瓦を供給していた瓦窯は吉志部瓦窯跡(吹田市)、栗栖野瓦窯跡(京都市左京区)、西賀茂瓦窯跡(京都市北区)が知られるに過ぎなかった。大山崎瓦窯跡の発見によって新たな供給地が明確になったことは平安京造営期の瓦生産の実態解明に大きな手がかりとなった。その遺構の重要性によって当瓦窯跡は国史跡に指定され、その後、国の補助金を得て大山崎町が買収した。 |
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<大山崎町の歴史>
大山崎町の位置が摂津と山城の境にあるため古代から交通の要衝として繁栄した。まず奈良時代には、僧行基によって山崎橋が架けられ、その真近には山崎津(港)が設けられて海陸の重要地点となった。やがて都は奈良平城京から長岡京に遷都され、都に最も近い港町として大勢の人々でにぎわった。長岡京はわずか10年間で廃都となったが、次いで平安京へと遷都され、大山崎町はますます繁栄をみせる。9世紀には国府・駅が設置され、酒造が行われて重要な地方都市となった。鎌倉時代には油座が誕生して強い力をもち、近畿一帯の専売権を握り、山崎長者と呼ばれる大金持が現れる程の中世都市に成長した。
しかし、世に名高い天王山合戦を境として町の様子は大きく変化した。合戦後羽柴秀吉は天王山城を築城したもののやがて大阪城が完成すると、大山崎町にいた多くの職人たちも大阪へ移り、中世に強い勢力を誇った油座もついに解体してしまった。その後、江戸時代を通じ西国街道の宿駅として淀川筋の二十石船の港町として平穏な歴史が流れた。ところが幕末の動乱は本町にも押し寄せ、禁門の変で敗れた十七士が天王山で自刃し、彼らを追ってきた幕軍によって町は大火となり、明治の幕明けは町の再建から始められた。 |