|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
松尾芭蕉の弟子で、蕉門十哲の一人として名高い向井去来(慶安4年(1651)〜宝永元年(1704))が晩年を過ごした所で、茅葺きの小さくて素朴なたたずまいが印象的である。門口に簑と笠をかけて在宅を知らせたのは有名な話である。
名前の由来は商人が庭にあった40本の柿の実を木ごと買い取り代金を支払ったその晩、強風で実がほとんど落ちつくし、去来は、柿の代金を全額返したところから名付けられた。芭蕉もこの落柿舎に3度訪れ、名作「嵯峨日記」を著した。庭には去来のよんだ
の句碑がある。
去来は長崎の生まれ、芭蕉に師事して俳諧を学び、その芭蕉をして「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」といわしめた。かって武人であった去来は極めて篤実真摯な人柄で、芭蕉に仕えるさまは、ちょうど親に対するようであった。
その句
はよく知られている。
多くの俳人達が、この跡をしたって訪れており、庭には彼らの句碑がたくさん立っている。向井去来の墓が裏山にある。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
<落柿舎制札>
一、我家の俳諧に遊ぶべし
世の理窟を謂ふべからず
一、雑魚寝には心得あるべし
大鼾をかくべからず
一、朝夕かたく精進を思ふべし
魚魚を忌むにあらず
一、速に灰吹きを棄つべし
煙草を嫌ふにはあらず
一、隣の据膳をまつべし
火の用心にはあらず
右條々
俳諧奉行 向井去来 |
|
|
|
(「落柿舎制札」は、元禄7年5月、落柿舎での俳席で、即興に芭蕉が作ったものともいわれ、また、その十年前に、去来が原案を作ったともいう) |
|
<芭蕉十哲>
杉山杉風(さんぷう) 45歳 |
向井去来(きょらい) 41歳 |
服部嵐雪(らんせつ) 38歳 |
森川許六(きょりく) 36歳 |
越智越人(えつじん) 36歳 |
宝井其角(きかく) 31歳 |
内藤丈草(じょうそう) 30歳 |
志太野坡(やば) 31歳 |
各務支考(しこう) 27歳 |
立花北枝(ほくし) 不詳 |
|
|
(年令は、元禄4年(1691)に「猿簑」(さるみの)が刊行された当時を示す。この年、芭蕉48歳) |
|
|
|
向井去来の墓
|
|