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山田寺は、右大臣・曽我倉山田石川麻呂が発願した。飛鳥時代を代表する寺院の一つです。記録によれば、641年に着工し2年後には金堂が完成したものの、649年に石川麻呂が政争で自殺したため造営は中断した。その後、本格的に造営が再開され、676年に塔が完成、685年には、現在興福寺に仏頭が残る本尊丈六仏の開眼供養が行われた。
1976年(昭和51年)以降の発掘調査では、東西」118m、南北185mの寺域に、南門・中門・塔・金堂・講堂が南北一直線に並び、回廊が塔と金堂を囲む伽藍配置であることが明らかになった。また、東面回廊が倒壊したままの状態で見つかるなど飛鳥時代の建築様式を知る上で貴重な発見があいついだ。 |
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<宝蔵>
この場所の発掘調査で四個四列に並んだ礎石が見つかり、高床の蔵のような建物があったことがわかった。また、経軸や仏具を含む多くの遺物が出土したことから、この建物は仏具等を納める宝蔵であったと考えている。 |
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<東面回廊>
山田寺では、塔と金堂のある中心区画の四方を回廊が囲んでいた。東面回廊の発掘調査では、建物全体が屋根瓦もろとも西向きに倒れた状態で見つかった。蓮弁(れんべん)を彫刻した礎石や基壇の縁石がほぼ完全に残っており、東面回廊は南北23間86.9m、基壇幅6.4mの規模であったことがわかった。また、柱や連子窓(れんじまど)など多くの建築部材や表面に白土を塗った壁土が残っており、古代の建築技術を知る貴重な資料となった。北から13・14・15間目の部材は特によく残っていたことから、保存処理をほどこしたうえ元のかたちに組み上げ、飛鳥資料館で展示している。 |
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<金堂と礼拝石>
山田寺の跡には、建物の基壇や礎石が地上に残っており、発掘調査をする前から塔の北に金堂があったと考えられていた。発掘の結果、金堂の基壇は、東西21.6m、南北18.4m、高さ約2mの規模で、周囲には板石を敷き詰めた犬走りがめぐっていたことがわかった。さらに、塔と金堂を結ぶ参道の中ほどでは石灯籠の台石が、また金堂の南面中央では犬走りに接して東西2.4m南北1.2mの「礼拝石」と考えられる板石が見つかった。礼拝石を金堂の前面に据えるのは珍しく、ここに原寸大に復原して展示している。 |
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昭和51年(1976)から昭和58年(1983)まで行われた発掘調査で皇極2年(643)の建立と判明し、このとき東回廊の連子窓が発見されたことから、現在の法隆寺よりも古い木造建築物であることがわかった。 |
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史跡の横隅に小さな社がある。現在の山田寺であった。往時の山田寺とは比較できないほどの小さな建物であった。
山田寺は中世以降衰微し、明治時代の廃仏毀釈で廃寺となったが、明治25年(1892)、小寺院として再興された。現在、山田寺跡は国の特別史跡になっている。 |