写真紀行・旅おりおり トップページへ 写真紀行・旅おりおり : 旅先で撮影した景色、建築、史跡、祭、風物等の写真と動画
 <史跡を巡る写真紀行

 印象深い景色
坂道 灯台
横丁・小路
街角 通り
温泉
 史 跡
街道 史跡
遺跡 人物
奥の細道 墓地・終焉地
Play Back 城・城跡
 建築・構造物
歴史的建造物 先端建築
神社
教会
漁港 垣根
 自 然
池・沼・湿原 海岸
 産業・交通
伝統・地場産業 バスターミナル
自動車・バイク
国内線 道風景
航空機
 四季の景色
棚田 桜紀行
春景色 夏景色
秋景色 冬景色
 歌の舞台・祭・他
歌の舞台 祭・イベント
夜景 テ−マパ−ク
趣味悠々 食紀行
日曜画家  
 管理人
管理人備忘録 リンク集
平安宮跡 平安京の大内裏   京都市
平安宮跡・平安京一本御書所跡
平安京 一本御書所跡
 平安時代、この付近は天皇の住まいである内裏の東側に当たり、一本御書所があった。一本御書所は、平安時代中期の天暦2年(948)頃から「貞信公記」などの文献に現れ、世間に流布した書籍を各一本(一部)書き写して保管・管理した所で、侍従所の南側にあって、公卿別当をもって長官に任じ、その下に預(あずかり)や書手などの役があった。
 「日本紀略」康保元年(964)10月13日粂には、一本御書所で清書した二百二十二巻を大蔵省の野御倉に遷納したことが記されている。また平安時代後期には、鳥羽天皇や崇徳天皇が度々ここに行幸されている。
 「平治物語」によると、平治の乱(1159)に際して、藤原信頼らが後白河上皇を一本御書所に押し込めたことが書かれ、つとに有名である。
 なお、陽明文庫本「宮城図」にはこの付近を御書所と記しているが、「西宮記」によると。内裏外郭北門(朔平門)西の式乾門の内の東掖門には御書所があったとし、天皇の書物等を管理する内御書所は内裏内の承香殿の東片廂にあったとする。
平安宮跡・内裏承明門跡
平安宮 内裏承明門跡
 この付近から北方一帯は、平安宮(大内裏)の天皇の居所である内裏跡にあたり、1984年に当地で行われた発掘調査で、江戸・桃山・平安・奈良の各時代の遺構や遺物が見つかっている。そのうち平安時代の遺構は、敷地南寄りで凝灰岩の切り石及び河原石を並べた幅約80pの東西方向の新旧遺構が検出され、内裏正門の建礼門の内側にあった承明門の北側雨落溝跡(あめおちみぞ 雨水の排水溝)と判明した。
 この溝を境にして北方は、白砂が敷かれた状態で見つかり、内裏正殿である紫宸殿の前庭は白砂が敷かれていたこともあきらかになった。また、この雨落遺跡北方では、南北一直線上に9世紀中頃から11世紀末までの4箇所の地鎮め遺構が検出され、このうち1基は、11世紀中頃の輪宝(りんぽう)にけつが打ち込まれた状態で出土、さらに据え置かれた土師器皿数枚の上に倒れた状態の壺も検出され、輪宝上面などには金粉、銀切板、琥珀片、ガラス玉、ガラス玉、珊瑚片など、儀式の際にまかれた宝物なども見つかっている。この地鎮の遺構は、火災後に再建され天皇の新居入宅の際に行われたもので、天台密教の安鎮法(あんちんほう)による儀式で執り行われたを示し、地鎮め地点の記述や同時に出土した土器の編年から、延久3年(1071)の後三条天皇遷都の時のものと考えられている。
 これらの祭祀場所は、承明門の中央、すなわち内裏の中央南北ラインの位置を示しており、内裏を復元する重要な定点となり、また、内裏の変遷や関係書物は、一括して京都市の有形文化財に指定され、雨落遺構も地中の元位置で保存されている。 
平安宮跡・内裏内郭回廊跡 平安宮跡・内裏内郭回廊跡
内裏内郭回廊跡
 桓武天皇延暦13年(794)に遷都された平安京の中心を成す宮殿の一画は現在の千本丸太町一帯の地におかれていた。
 そのうち天皇の住居であった内裏は大極殿のあった千本丸太町の東北方のこの地域に、東西57丈(173m)、南北72丈(218m)の広さで造られていた。
 この内裏は厳重な築地回廊で囲まれていた。その遺跡の一部は、昭和38年の下水工事で知られ昭和44年、48年の発掘調査でさらに明らかとなった。その結果、ここは内裏内郭の築地回廊の西南部が埋もれており、その基壇西縁の凝灰岩羽目石、束石、地壇石が遺存し、約30mの長さに渡って南北方向に延びていることが確かめられた。回廊の巾は約35尺(10.55m)である。平城宮、長岡宮の内裏築地回廊と同規模である。
 この回廊は、現在知られている、内裏の確実な遺跡としては唯一のものであり、朝堂院、豊楽院における遺跡の一部と共に平安京研究上重要な基準となるものである。
平安宮跡・内裏内郭回廊
内裏内郭回廊跡
 天皇の居所である内裏は、内外二重の郭で囲まれ、内側を内郭回廊と呼び、築地を挟んで内と外に回廊をめぐり、衛士らが厳重に警護していた。
 発掘調査では、下立売通の北と南側で内裏西面内郭回廊跡の西・東辺の一部が見つかり、凝灰岩で構築された回廊基壇石や河原石を敷き並べた雨落溝を検出、さらに南西内郭回廊跡では、内裏内の水を外へ排水するための暗渠跡も見つかっている。
 内郭回廊の基壇は、調査の結果から幅が10.5mと判明し、内裏の南西にあった朝堂院の回廊(11.58m)よりも狭いことが分かっている。現在、当該地は国の史跡に指定され遺構が保存されている。
平安宮跡・内裏紫宸殿跡
平安宮 内裏紫宸殿跡
 内裏の正殿で公的な行事の場、中央の御帳台に天皇が出御して国家の重要な儀式が執り行われた。御帳台の背面、北庇との間仕切りには賢聖障子(中国古代の名臣32名の肖像画)があった。母屋は東西9間、南北3間で四方に庇があって周囲を簀子(すのこ)がめぐり、正面中央部の階段の左右には桜と橘が植えてあった。北の仁寿殿を北殿・後殿と呼ぶのに対して紫宸殿を南殿・前殿と称した。
 紫宸殿では大極殿で行われていた即位や東宮元服・朝賀・節会などハレ(儀式や祭、年中行事など非日常)の行事が行われ、仁寿殿はケ(日常)の行事に用いられた。
平安宮跡・内裏跡
平安宮 内裏跡
 延暦13年(794)の平安遷都とともに造営された内裏は、天皇や后たちの居住空間で平安宮(大内裏)の中心的な施設。その構造は、陽明文庫蔵の「内裏図」などによると、外郭築地と内郭廻廊の二重構造で厳重に区画され、内郭が東西57丈(約171m)、南北72丈(約216m)、外郭築地は東西73丈(約219m)、南北100丈(約300m)の規模であった。
 内郭の南辺には紫宸殿・仁寿殿(じじゅうでん)・承香殿(じょうきょうでん)・清涼殿)などハレの場があり、北辺には弘徽殿(こきでん)・飛香舎(ひぎょうしゃ)(藤壺)・淑景舎(しげいしゃ)(桐壺)といった七殿五舎からなる後宮が存在し、それぞれの建物は廻廊や透渡廊(すきわたろう)で繋がり、雅な宮廷生活が繰り広げられ、『源氏物語』の中心舞台であった。
 初焼亡は村上天皇の天徳4年(960)であるが、里内裏が用いられたのは16年後の2度目の火事の時であり、歴史から姿を消すのは安貞元年(1227)の焼亡である。
 付近の発掘調査で確認されている主な遺構は、西側内郭回廊基壇西、東面跡と雨落溝(あまおちみぞ)跡、承明門(じょうめいもん)跡、外郭西面築地跡、蔵人町屋)東・南雨落溝跡、蘭林坊の溝跡などがあり、古絵図や発掘調査により、内裏内の主要な建物の位置は、ほぼ地形図上に落とすことが可能となっている。内裏跡では、内郭回廊跡のほか主要な殿舎跡に説明板や石柱が設けられている。
平安宮跡・朝堂院跡 平安宮跡・朝堂院跡
平安宮 朝堂院跡
 朝堂院は八省院とも呼ばれ、天皇の即位や外国使節の謁見などさまざまな儀礼や国事が行われるところで、朝政の中心の場であった。宮城の正門の朱雀門を入ったところに位置し、北は中和院、西は豊楽院、東は太政官や民部省などの官衙に接していた。
 その規模は、東西約60丈(約180m)南北約150丈(約450m)で、全体が回廊で囲まれていた。正面には応天門があり、両翼に栖鳳・翔鸞の二楼が建ち、応天門を入ると左右に朝集堂があった。さらに会昌門を入ると、大礼の際に諸司官人の列した十二堂が建ち並び、正面の一段高い龍尾壇の上には左右に蒼龍・白虎の二楼を従えて、朝堂院の正殿である大極殿がその威容を誇っていた。東西11間・南北4間の規模を有する大極殿は、緑彩の瓦で葺かれた大屋根の下に朱塗りの柱の並ぶ華やかな殿堂であった。
 朝堂院は、平安京造都開始の翌年の延暦14年(795)にまず大極殿が造営され、次々に整備されていった。
 その後数度の火災に会いながらもそのたびに再建されてきたが、安元3年(1177)の大火で全焼し、以後、再び建てられることはなかった。
 現在のこの地は、ほぼ大極殿の西端ないしその西側の回廊付近にあたり、昭和50年(1975)に平安博物館が発掘調査を行った。後世の撹乱が著しく、遺構を確認することはできなかったが、大極殿に関係すると思われる多量の瓦類や緑彩の鵄尾の破片などが出土した。
北海道
函館 造船所跡地 ペリー提督来航記念碑 宇須岸河野館跡
東北
角館・武家屋敷 酒田・山居倉庫 弘前・石場家住宅 秋田・旧金子家住宅 外ヶ浜・厩石
関東
東京 築地塀 佃島渡船場跡 大洗堰跡 山吹の里
お化け燈籠 処静院跡の石柱 蕃書調所跡 定火消発祥の地
銅燈籠 旧乃木邸 国学発祥の地 赤門
湯島聖堂 御鷹部屋 新暦調御用所跡 江戸城外堀跡石垣
石町時の鐘 キリシタン屋敷跡 勝・西郷の会見地 神田上水石樋の石
真砂遺蹟 神田下水 近代教育発祥の地 北町奉行所跡
鈴ヶ森刑場跡 南町奉行所跡 桜田門 日本水準原点
解体新書 高輪海岸の石垣石
東京(忠臣蔵) 赤穂浪士の道 吉良邸跡 浅野内匠頭邸跡
東京(見附) 赤坂見附跡 日比谷見附跡 四谷見附跡
鎌倉 東勝寺跡 日蓮上人辻説法跡 北条時房邸跡
横浜 鉄の橋 日本の新聞誕生の地 象の鼻波止場
佐倉(武家屋敷) 旧河原家住宅 旧但馬家住宅 旧武居家住宅 旧堀田邸
武家屋敷通り
水戸・弘道館 ペリー上陸地 伝 義経首洗井戸
甲信越
長野 松代藩文武学校 川中島古戦場 象山地下壕 真田邸
松本・開智学校
東海
関ヶ原合戦 家康最初陣地 関ヶ原決戦地 石田三成陣跡 島左近陣跡
名古屋 信長塀 蕉風発祥の地
浜松 米津台場跡 鈴木家住宅 犀ヶ崖古戦場 徳川秀忠誕生井戸
江戸行六義人 中村家住宅 三方ヶ原古戦場 松下屋敷
磐田 旧見付学校 遠江国分寺跡
掛川 旅籠 川坂屋 藤文 旅籠 萬屋
伊豆の国 江川邸 願成就院 韮山反射炉 北条政子誕生井戸
伊豆 旧天城トンネル 指月殿
下田 ペリー上陸地 吉田松陰寓寄処
恵那(岩村) 岩村藩校知新館 鉄砲鍛冶 加納家 伝 鴨長明塚 勝川家
浅見家 天正疎水 土佐屋 木村家
岩村本通り
美濃加茂 吉田家住宅 旧脇本陣(林家住宅)
新城・馬防柵 豊明・桶狭間古戦場 桂小五郎隠れ家址 伊賀・崇廣堂 東伊豆・畳石
高山陣屋 大旅籠 柏屋 鵜沼宿町屋館 西郷・山岡会見の地 恵那・旧三宅家
菊川・黒田家住宅 牧之原・大鐘家住宅 森町・友田家住宅
近畿
京都 寺田屋騒動址 落柿舎 御手洗井 池田屋跡
粟田口 インクライン 水路閣(琵琶湖疎水) 中院山荘跡
時雨亭跡 御土居 長坂口 閑院宮邸跡
阿国歌舞伎発祥地 翠紅館跡 京都御所 西行井戸
西行庵 神泉苑 西寺旧跡 高松殿址
二條陣屋 亀山藩京屋敷跡 応仁の乱勃発地 當道職屋敷址
高瀬川一之船入 高瀬川七之舟入址 草紙屋・八文字屋 土佐藩邸跡
化粧水 千利休居士遺蹟 不審庵 秦家住宅 野口家住宅
新選組最後の洛中屋敷 久坂玄瑞寓居跡 東三条院址 御陵衛士屯所跡
三條烏丸御所跡 将軍御成門跡 相国寺水路の石垣 輪違屋
角屋 近江屋跡 薩長同盟締結地 東本願寺・太鼓楼
百々橋の礎石 肥後藩屋敷跡 慶長天主堂跡
京都(平安宮) 大極殿跡 平安宮跡
奈良(平城宮) 朱雀門 大極殿@ 大極殿A 大極殿の屋根
井戸枠 内裏正殿 築地回廊 磚積基壇建物
遺構変遷 宮内省 東院庭園 兵部省
第一次大極殿と朝堂院 第二次大極殿 檜皮葺 羅城門
明日香 甘樫丘 高松塚古墳 飛鳥水落遺跡 石舞台古墳
大官大寺阯 川原寺跡
大山崎 天正・山崎合戦 山崎宗鑑冷泉庵跡
赤穂 近藤源八宅跡 大石頼母助屋敷門 大石邸長屋門 息継ぎ井戸
桜井・山田寺阯 朝来・井筒屋 西宮・大阪城採石場 彦根・長屋門附塀 橿原・藤原宮跡
旧西川家住宅
中国
津和野 馬場先櫓 藩校養老館 多胡家表門 大岡家老門
萩城下町 松下村塾 旧厚狭毛利家萩屋敷長屋 旧湯川家屋敷
鍵曲 旧萩藩校明倫館 菊屋家住宅 旧久保田家住宅
旧佐伯丹下家屋敷
下関 朝鮮通信使上陸淹留地 七卿史跡 奇兵隊結成の地 長州砲
壇ノ浦古戦場
松江・武家屋敷 福山・鞆七卿落遺跡 広島・頼山陽居室
四国
小豆島・池田の桟敷 三好・旧喜多家住宅 旧永井家庄屋屋敷 丸亀・塩飽勤番所跡 安芸・野村家
高知・浦戸砲台場跡
九州
長崎 グラバー邸 亀山社中の跡 出島 居留地跡
鹿児島 仙巌園 磯御殿 医学院跡
ザビエル記念碑 島原・武家屋敷 知覧武家屋敷群 福岡・元寇防塁 太宰府政庁跡
その他
中世の京・町並み 根来寺多宝塔 江戸橋広小路 後漢書東夷伝new


Copyright(c) 2002-2024 写真紀行 uchiyama.info All Rights Reserved.