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唐の都「長安」をモデルにつくられた東西4.3km南北4.8km(主体部)に及ぶ広大な奈良の都、平城京の中心地。平城宮の正門「朱雀門」(復元)は阪奈道路沿いに建っている。現在、平城宮跡の中を近鉄電車が走る。国の特別史跡。 |
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朱雀門は平城宮の正門。朱雀とは南を守る中国の伝説上の鳥をいう。第一次朝堂院の南方、平城宮南面中央に位置する。東西約25m、南北約10mの大きさで、基壇上に建ち、屋根は二重で入母屋造り。他の宮城諸門よりひとまわり大きく、立派である。門前の広場は元日のお祝いなど儀式としても用いた。
朱雀門から南へ延びる道路は朱雀大路。平城京のメインストリートで、幅は約70m、平城京の正面玄関羅城門まで続く。 |
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平城宮は、和銅3年(710)平城京の北部中央に、東西約1.3q、南北約1qの地を占めて営まれた。ここには、天皇の住まいである内裏や国家的な儀式や政治の場である大極殿・朝堂院のほか、たくさんの役所が立ちならんでいた。今までいえば、皇居と霞ヶ関の官庁街を併せたようなところであった。平城宮の四方には、高さ5mの築地塀がめぐらされ、それぞれに3つずつ併せて12の門があり、南の正面中央の門が朱雀門でだった。
都が長岡京から平安京に移ったあとは、田んぼになって長い間忘れられてた。江戸時代の末になって、藤堂藩の大和古市奉行所に勤めた北浦定政の実測研究によって、平城宮の規模が明らかになった。明治33年(1900)奈良県技師だった関野貞が、大極殿の跡を明らかにしてその保存を訴えた。これに応えて、奈良の植木商棚田嘉十郎が私財を投げうって保存運動に努めた。その死後になったが、大正11年(1922)大極殿と朝堂院の跡が史跡の指定を受け、翌年国有地にすることができた。
平成10年(1988)春、朱雀門と東院庭園が復原された。いま朱雀門は、朱の色も鮮やかに「光ふる街 奈良」の未来を象徴するかのように、広々とした平城宮跡の空に輝きをみせている。(奈良市観光情報センタ−の説明文より一部引用) |
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