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<鉄の橋>(かねの橋)
明治2年(1869)、英国人土木技師 R.H.ブラントン(RICHARD HENRY BRUNTON 1841〜1901)により架け替えられた吉田橋は、橋長24m、幅員6mの日本最初のトラス鉄橋であり、「鉄(かね)の橋」として市民に親しまれるとともに、文明開化のシンボルとして錦絵に描かれるなど大変人気を集めた。現在の高欄は「鉄の橋」をイメージして復元したものです
<ブラントンと横浜>
明治元年(1868)政府の招聘により来日したブラントンは、開国にともない、日本沿岸各地に灯台を建設する一方、8年間にわたり活動の拠点としていた横浜では、日本大通りや横浜公園の設計を行うなど、近代的なまちづくりに大きな足跡をのこした。
横浜居留地測量 1867〜70
電信敷設 1869
新橋・横浜間の鉄道意見書 1869
吉田橋(鉄の橋)架設 1869
居留地、下水道整備・マカダム式道路舗装・街路照明計画 1869-71
水道計画 1870
築港計画 1870, 73, 74
新埋立居留地造成設計・施工 1871
中村川拡幅等設計・施工 1871
日本大通り設計・施工 1871
修技校解説 1871
横浜公園設計・施工 1871, 72 |
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<吉田門関門跡>
安政6年(1859)6月2日、横濱が開港となって交易場、貿易港として栄えるにしたがい、幕府は、開港場の施設の充実にあたり、陸路である東海道からの横浜路を開設するとともに、当時、伊勢山下から都橋付近まで入海であったことから木橋を架け、その後、本橋が吉田新田から架橋されたことにより「吉田橋」と呼ばれた。
吉田橋が設置されてからは、当地は交通の中心地となり、その治安を図るため橋のたもとに関門を設け、武士や町人の出入りを取り締まった。
関門は、当初港町側に設けられましたが、文久4年(1864)2月に吉田町側に移設された。関内、関外という呼び名はこの時以来で、関内は馬車道側、関外は伊勢佐木町側を指し、その関門は明治4年に廃止された。 |
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