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江戸時代、薩摩藩は藩内を113の外城(郷)と呼ばれる行政区画に分け藩内を治めた。外城では、行政庁である御仮屋を中心として麓と呼ばれる武士団の居住区があり、さらに町家・村落と続いていた。知覧もこの麓の一つで、御仮屋の前には城馬場が通り、これに直行して本馬場が通されている。馬場とは大路をいい、この馬場を挟んで麓の武家屋敷が形成され、随所に小路が配されている。知覧麓が今に見られるような姿に整備されたのは、18世紀の中頃であると伝わっている。
伝統的建造物群保存地区は、本馬場を中心とした東西約900m、南北約200mの範囲です。屈折する道路に沿い、石垣と生垣を連ねて屋敷地を区画し、道路から後退して、腕木門や石柱門を開く姿は優れた景観を見せている。主屋と馬場との間には枯山水洋式などの庭園が造られ、これらの庭園のうち、特に価値のあるものは「知覧麓庭園」として国の文化財として指定されている。
<重要伝統的建造物群保存地区>
武家屋敷庭園群は、1750年前後に造られた。主屋と庭園とがよく調和し、石垣の上には大刈込みによる生垣が続いて、麓全体が母ヶ岳を中心に自然をよく取り入れた一つの庭園を形成している。上群地区18.6ヘクタールは、藩政時代のたたずまいを今に残しており、昭和56年(1981)11月に重要伝統的建造物群保存地区として、国の選定を受けた。全国では17番目、九州地区では2番目の選定となった。 |
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<知覧武家屋敷庭園「名勝」に指定>
庭園が名勝として、国の重要文化財に指定されたことについて、文化庁は薩摩藩だけにある郷の麓にあること、いずれも江戸時代中期の作庭で、 それぞれ優れた意匠で構成されていること、その手法は、琉球の庭園と相通じるものがあることなどをあげ、庭園文化の伝統を知るうえでも、貴重なものと説明しています。
鹿児島では、昭和33年に島津氏の別邸である磯庭園が指定されていますので、県内では2番目の「名勝」指定となります。 |
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<西郷恵一郎氏庭園>
知覧郷地頭仮屋跡に隣接する208u庭園。作庭年代は江戸時代後期。様式は大刈込式蓮菜石組枯山水。庭の南東部の隅に枯滝の石組みを設けて高い峯とし、この峯から低く高く刈り込まれたイヌマキは遠くの連山を表現し軽快な美しさを演出している。また鶴亀の庭園といわれ、一変して高い石組みは鶴となり、亀は大海にそそぐ谷川の水辺に遊ぶがごとく配され、石とさつきの組み合わせは至妙である。 |
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<平山克己氏庭園>
作庭年代は江戸時代中期。面積は277u。様式は大刈込式蓮菜石組枯山水。通りから門をくぐって屋敷内へ階段を上るようにして入る。道路面よりどの庭園も地表面が高くなっているがこれは敷地を盛り土したのではなく、道路を削って造ったため庭園敷地面が高くなったといわれている。母ケ岳の優雅な姿をとり入れた借景園で北側の隅には石組みを設けて主峯となし、イヌマキの生垣は母ケ岳の分脈をかたどっている。 |
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<平山亮一氏庭園>
作庭年代は江戸時代中期。書院は嘉永年間に再興された。面積は277u。様式は大刈込式蓮菜石組枯山水。石組みの一つもない大刈込み一式の庭園で母ヶ岳の優雅な姿を取り入れた借景園である。イヌマキによる延々たる遠山は、その中に三つの高い峯を見せ、前面にはサツキの大刈込みが築山を表現して、2段構えの構図に仕立ててある。刈り込みの前には琉球庭園に見られる盆栽を乗せるための切石がある。 |
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<佐多美舟氏庭園>
作庭年代は江戸時代中期、宝暦年間。面積は446uで知覧庭園の中では最も、豪華で広い庭園である。様式は大刈込式蓮菜石組枯山水。屋敷の入口には袖屋根を持つ立派な門が残されている。知覧麓では袖屋根を持つ門はそれが本家であることを表している。枯滝を造り、築山の上部に石灯、下部の平地には、各所に巨岩による石組を設けている。門を入って右に折れて書院の前に出ると、本庭の主力の滝を中心とした石組みは、延々と流れ、訪れた人々に力強さと広さを感じさせる。 |
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<佐多民子氏庭園>
作庭年代は江戸時代中期寛保から宝暦年間。面積不祥。様式は大刈込式蓮菜石組枯山水。巨石奇岩を積み重ねた深山幽谷の景をうつしだしている。敷地の北西隅に立石の枯瀧が組まれ、書院から枯瀧へ向かって飛び石が配置してある。麓川の上流から運んだ庭石は、凝灰岩質のもので、巨岩のため石目にそって割り、牛馬で運びやすくしたものである。
この佐多家は、前の美舟氏の分家にあたる。 |
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<佐多直忠氏庭園>
作庭年代は江戸時代中期、寛保年間。面積は275u。様式は大刈込式蓮菜石組枯山水。江戸時代中期の武家屋敷の風格を備えている。庭園は主屋の北にあり、母ヶ丘を望む庭の一隅に築山を設けて、その中心部に3.5mの立石がそびえ、下部には、多数の石組みを配して枯滝としている。何か大陸的で一幅の水墨画をそのままに現した名園である。 |
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<旧高城家住宅>
旧高城家住宅は、明治以前に建てられた武家住宅であり、「おとこ玄関」と「おんな玄関」の二つがある特徴を持っている。他の知覧型二ッ屋と同様に「おもて」と「なかえ」の二つの屋根の間に小棟を置いたタイプのもので、知覧だけにみられる。
二つの本棟と小棟の形、そこにできる屋根の造詣は実に美しく、この構造は、知覧大工の創造力と技術によって完成されたものである。昭和に入り「なかえ」部分は失われていたが、平成6年(1994)3月に復元したものである。(国選定・重要伝統的建造物群保存地区・保存建物) |
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<歴史的背景>
現在に残る知覧麓(ちらんふもと)の武家屋敷群は、江戸時代中期、佐多氏18代で知覧領主島津久峰(1732〜1772)の時代に形づくられたとされている。江戸時代、薩摩藩は領地を外城(とじょう)と呼ばれる113の地区に分け、御仮屋を中心に武家集落を造り、鹿児島に武士団を終結させることなく分散して統治に当たった。知覧もその外城の一つです。
ところで、佐多氏初代忠光が地頭として知覧を治めるようになったのは、南北朝時代の文和2年(1353)から始まり、当初はここから約1.5km南西にある知覧城(国指定史跡)を拠点としていた。しかし天正19年(1591)11代久慶の時代に、海賊事件により川辺の宮村に転封となった。
佐多氏が復帰する慶長15年(1610)まで種子島氏が知覧を治めた。その間に知覧城は火災にあい焼失したと伝えらえている。
復帰した佐多氏12代忠充は、本拠(御仮屋)をっこから約1q西にある中郡地区に移す。そしてさらに江戸中期になって18代久峰が現在の上郡地区に御仮屋を移した。つまり佐多氏が最後に形成した武家集落が現在残るこの武家屋敷群となる。
また佐多と島津の二つの姓の関係は、佐多氏16代久達(1651〜1719)から始まる。 もともと佐多氏は島津氏の分家筋に当たり代々薩摩藩の重席にあった。それまでの功績が認められ久達の時代に、知覧領の私領化と島津姓を許される。ですから佐多氏16代以降は地頭職ではなく領主となり佐多姓ではなく島津姓を名乗った。
この武家屋敷地区は「門を構え、その奥に主屋を配した武家町の姿をよく今日に伝えている」として昭和56年(1981)、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。 |