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鈴木家住宅は、天竜川流域から浜名湖北岸、東三河地方に分布していた分棟型釜屋建の農村民家で1821年に建築された。
分棟型とは構造的には全く別になる二棟の建物の間に大きな雨樋を架け、平面上では一般の直屋(すごや)と類似した構成になる形式をいう。
なかでも主屋と釜屋からなる形式の民家は、古くから遠江における唯一のものとされており、この地方ではこれを釜屋建あるいは撞木(しゅもく)造りと呼んでいる。
平成11年(1999)から13年にかけて修理工事を実施し釜屋建特有の大樋を復元し、間取りを前広間型の平面にするなどの現状変更が行われ建設当時の姿に戻された。また、これに伴う調査により釜屋の柱から「文政三年辛巳年」の墨書、主屋の敷居からは「天保拾己亥年立春造作」という墨書が発見され、この建物の建設年代が確定し、初期の改造時期までが判明した。 |
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江戸末期から大正にかけては紙漉(かみすき)を、大正から昭和初期にかけては養蚕を盛んに行い、その作業はすべて家の中で行われていた。また、釜屋の「うまや」では、馬や牛も飼われていた。
農村民家の素朴で合理的な構造に庶民の知と美が漂っている。(国指定建造物) |
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<釜屋建民家>
構造的には全く別になる二棟の建物の間に大き雨桶を架け、平面上では一般の直屋と類似した構造になる形式を分棟型と呼んでいる。
この形式の民家は南西諸島から九州南部のほか、海上の道である黒潮に沿った太平洋地域(高知県の一部、愛知県東部奥三河、豊川から静岡県西部浜名湖畔、天竜川流域、伊豆諸島、房総半島南部、茨城県西北部から内陸部、仙台周辺)の広い範囲に分布していた。
釜屋建民家は、静岡県西部の天竜川流域から愛知県東部の豊川流域にかけて分布していた分棟型民家の一種で、成立は18世紀半ば頃と推定されている。釜屋型民家は、棟が丁字型となる屋根形状から撞木造などとも呼ばれ、昭和30年代には数百棟の存在が確認されたが、現在ではほとんど残っていない。 |