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ここに幕末の頃、翠紅館(すいこうかん)と呼ばれていた屋敷があり、たびたび志士達の会合の場となっていた。
もとは正法寺という寺の塔頭のひとつがあり、眺望が良く、会合に利用されていたのを鎌倉時代に公家の鷲尾家が買い取り、その景観の素晴らしさから「翠」と「紅」の素晴らしい館という意味で名付たといわれる。その後、鷲尾家から西本願寺の東山別院に寄進された。
文久3年(1863)正月27日には、土佐藩の武市半平太、長州藩の井上聞多、久坂玄瑞ら多数が集まり、ついで同年6月17日にも、長州藩の桂小五郎、久留米藩の真木保臣(和泉守)らが集まった。この数年前から、攘夷運動は次第に高まり、反幕府の政治勢力となりつつあったが、これら各藩の志士代表者会議で、攘夷の具体的な方法が検討され、世にこれを翠紅館会議という。同年8月13日には、孝明天皇の大和行幸の詔書が出されて攘夷運動は頂点に達した。
しかし8月18日に政変が起こり、その結果攘夷派は失脚、代わって公武合体派が主導権を握り、幕末の政局は混迷の度を増していった。」 |
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