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江戸時代における朝鮮通信使の事跡は、日韓両国の長き交流の歴史の上で、善隣友好の証として格別の意義をもつものであった。
当時鎖国政策をとる我が国において唯一国交を維持する国からの友好の使者として、慶長12年(1607)から文化8年(1811)に至までの間、12回来日その内、最後の対馬での対応に止まった回を除き、明和元年(1764)までの11回において本土最初の地として赤間関(下関)に上陸淹留、また復路においても立ち寄るのを常としていた。
時に正使以下500名にも及ぶ一行の来日は、国家外交の使節であるばかりでなく、先進文化の国からの一大文化使節としても、洗練された学問、芸術と、絢爛たる異文化の香りを伝え、誠信の交わりを通して尊崇の念を深く人の心に刻み、文化交流、親善の大いなる成果をもたらした。
今、新たな世紀を迎え、さらなる善隣友好の交わりを構築すべき時に当たり、朝鮮通信使の歴史的意義を再確認し、一行の上陸の当地に記念の石碑を建立、その歴史を恒久的に顕彰しようとするものである。(建立趣旨)
(淹留(えんりゅう)→長く滞在すること) |
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