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阪の陣(慶長19年の冬の陣と翌年の夏の陣)で深手を負った武士太田与七郎源重吉は長松院で手当てを受け、その後日坂に居住しました。旅籠屋「川坂屋」はその子孫で寛政年間に問屋役を務めたこともある斉藤次右衛門が始めたと伝えらている。
現存の建物は宿場の殆どが焼失した嘉永5年「日坂宿大火」後に再建されたものです。宿で一番西にあった旅籠屋で、日坂宿では江戸時代の面影を遺す数少ない建物の一つです。
精巧な木組みと細かな格子が特徴的で、当時建築にあたっては江戸より棟梁を招いたとのことです。また、「川坂屋」には脇本陣などという肩書きの着いた資料は見られないが、床の間付きの上段の間があり、当時禁制であった檜材が用いられていることは、身分の高い武士や公家なども宿泊した格の高い旅籠屋であったことを伺わせる。 |
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旅籠屋としては本陣と同じ明治初期に廃業したようだが、当家に伝わる維新政府の高官、山岡鉄舟・巌谷一六・西郷従道などの書から推測しますと廃業以後も要人には宿を提供したと思われる。
その後平成5年(1993)まで斉藤家の住居として使われ、平成12年(2000)修理工事が竣工し、現在に至っている。敷地は300余坪あったが、昭和25年(1950)の新国道開通で分断され、その後、平成7年(1995)のバイパス工事により明治元年に掛川城主太田候より拝領した「元掛川偕楽園茶室」も移転を余儀なくされた。茶室は平成15年(2003)年母屋の北側の地に復原されました。 |
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<襖の書・山岡鉄舟>
襖の墨跡は、幕末期の幕臣、新政府では明治天皇の側近であった山岡鉄太郎(号は鉄舟・1836〜1888)によるものです。鉄舟は戊辰戦争の際、勝海舟と協力して西郷隆盛を説いて江戸城の無血開城を実現させた。
<上段ノ間>
座敷が一段上がっているのは、ここが、武士等の中でも高位の方が宿泊又は休憩した際に利用した座敷である事を示している。なお、東側の縁側は当初、ガラス戸はなく雨戸のみであったのは中庭側と同様です。
<東久世通禧(通)の書>
勤王の公家・東久世通禧(通)は、文久3年(1863)の政変で長州へ脱出した七卿の一人。彼は、後明治政府の要職に就いている。
<西郷従道の書>
西郷隆盛の実弟で明治時代の政治家・軍人の西郷従道(1843〜1902)、明治21年(1888)夏、ここに宿泊して揮毫したものです。以靜侍譁(せいをもって かをまつ) |
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<二階の座敷>
旅籠の時代、二階座敷はもっぱら旅人の宿泊室に使われていた。川坂屋ではかつて四室の座敷があったと想定できるが、失われた二室境の柱がほとんど取り替えられている為、畳敷きであったか否かは不明だし、想定図の挿入や床の間はあくまで想定の域を出ない。
当時の旅籠での庶民は、ほとんど雑魚寝状態であり、敷き布団程度が用意され、衣類の一部を掛けて休んだ用です。その為、現在の旅館の様に、寝具を大量に収納する程の押入が必要ではなかったと思われる。二階の座敷にも床の間が設けられているのは、やはり、一階の座敷だけでなく、二階の室も武士等が利用する事があったと思われる。 |
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<湯沸かし釜>
この釜は、この付近にあった事が昔の家人から判明している。かつて、宿場の旅籠は私営とはいえ、幕府の管理下で営業許可を受けている立場であり、半公的な役目を果たしていた。 ここに釜がある事は、宿泊者以外の旅人にも湯茶の接待をしていた事がわかる。
登り下りの多い日坂宿では、外部の軒下が狭いため、屋内の土間を広くして、そこで、湯茶を振る舞っていたと思う。
横の縁台もあった事が痕跡から判明したので、展示の一つとして、釜を配置し、当時の面影を演出した。当時の釜には煙突がなく、釜上部の穴から出た煙を、前の板戸を開けて排煙していたと思う。床の窪みは残り墨を広げる場所です。
<建築当初の部材>
展示してある部材は、この建物の建築当初に使われたものです。修理の際、新しい部材と交換した。複雑な組み合わせです。 |