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和銅3年(710)、飛鳥に近い藤原京から、奈良盆地北部のこの地に都が移された。大路小路が碁盤目状に通る平城京の人口は、10万人程度と考えられている。平城京の中央北端に位置する平城宮は南北約1q、東西約1.3qの大きさで、天皇の住まいである内裏、政治や儀式をを執り行う大極殿と朝堂院、さまざまな役所、宴会の場となる庭園が設けられていた。しかし、都は延暦3年(784)に長岡京へ、さらにその10年後には平安京へと移り、平城京も宮もしだいに土の中に埋もれていった。
<第一次大極殿>
平城京への遷都当初から740年に恭仁京へ遷都されるまでの間、大極殿が置かれていたところ。
<第二次大極殿>
平城宮が740年に恭仁宮に移築された。その後、難波宮、紫香楽宮へと移った都が、再び平城宮へ戻った時(745年)に、もとの第一次大極殿の東側に新設されたのが第二次大極殿です。 |
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現在、平城宮跡は国の特別史跡として大切に保存され、奈良文化財研究所が発掘調査を続けている。これまでの調査の結果、平城宮は四角形ではなく東側に張出し部をともなっていたことや、政治の中心施設である大極殿と朝堂院の区画が東西2ヶ所あったことなどが明らかになっている。こうした成果にもとづき、遺跡の復原・表示をおこなっている。 |
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大極殿の前面、磚(せん、粘土を焼き固めた灰黒色の煉瓦)を積んだ高さ約2.4mの擁壁(ようへき)の下の広場が内庭です。大極殿で行われる国家儀式の際には、ここに貴族が立ち並んだ。内庭は築地回廊で囲まれていたが、その南辺中央に門が開き、饗宴などをおこなう中央区朝堂院へとつながっていた。 |
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<鴟尾>
屋根の一番上(大棟:おおむね))も両端につける鴟尾(しび)。鴟尾は平城宮大極殿でも恭仁宮大極殿でも出土していないが、当時、格の高い建物には通常、鴟尾をのせていたので、元々なかったとは考えにくく、鴟尾が金属でつくられ、溶かされて再利用されたために残らなかったと考えらる。高さは、平城宮大極殿のためにつくられたと想定されている鴟尾をもとに約2mと考た。 |
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<大棟中央飾り>
屋根の一番上(大棟)の中央につける「大棟中央飾り」は、中国に見られ、古くは鳥形だった。隋代以降は宝珠型となり意匠は多様化する。日本でも西大寺薬師金堂に載せられていたいたことが文献から知られている。第一次大極殿の大棟中央飾りの形は法隆寺東院夢殿の宝珠を参考にし、総高は約2mと考えた。 |
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発掘調査の結果から推定できる建物の柱跡を示す樹木。 |