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佐倉の武家屋敷の大半は、材料・規模ともに必要最小限に作られている。これは、屋敷の造作が藩によって行われていることが影響していると思われる。また、武家屋敷の規模や様式は、そこに住む藩士の身分の象徴でもあった。佐倉藩においても、江戸時代後半の天保4年(1833)に居住の制が定められている。整備公開されている佐倉の武家屋敷は、その制度に全て合致するわけではない、旧河原家住宅が大屋敷、旧但馬家住宅が中屋敷、旧武居家住宅が小屋敷にあたると考えられる。
佐倉の武家屋敷は、道に面する部分を正面とし、門を設け、土塁と生垣を築き、その奥に玄関や庭を設けていた。屋敷の裏側には菜園などをつくり、屋敷の境界には木が植えられ、背後の斜面は竹藪などのなっていた。
江戸時代の武家屋敷は、その大半が藩が所有し、藩士に貸し与えたものです。藩士身分の変化や藩の転封によって、住む人ガ変わる場合が多く見られた。
<旧河原家住宅>
河原家が鏑木小路に移ってきたのは天保6年(1835)12月とされている。旧河原家住宅の建築年代は、はっきりしないが弘化2年(1845)には存在していたことが文献資料によってわかっている。また、建築様式も構造・部材の風蝕などに古い要素が見られ、佐倉に残されている武家屋敷の中では最も古いものと考えられる。
平成2年(1990)に現在の位置に移築復元され、公開された。以前の住宅には、客座敷と玄関の部分がなかった。しかし、解体調査中に、その存在を示す痕跡が見つかり、文献資料などとつきあわせて、失われていた部分を復元している。千葉県指定有形文化財 |
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