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吉田松陰が下田で渡航を実行する際、医師村山行馬郎の好意により寄居していた場所であり当時の様子をそのまま伝えている。
嘉永7年(1854)3月18日、米国ペリー艦隊を追って下田に到着した吉田松陰、金子重輔は役人の目を逃れるため、それぞれ瓜中万二、市木公太と名を変え岡方村(現在の下田市4丁目付近)の岡村屋に宿泊し、米艦に便乗しての海外密航の機会をうかがっていた。
当時皮膚病(疥癬)を患っていた松蔭は、温泉による治療のため、この蓮台寺を訪れ、向かい側にある共同湯(上の湯)で夜を明かそうとしていた。そこで偶然この家の主、村山行馬郎医師と知り合い、その好意によりしばらく村山邸に身を寄せることになった。松蔭等は3月27日深夜、柿崎の弁天島付近から小舟を出し米艦に漕ぎ着けて便乗を懇請したが断られた。
企ての発覚を覚悟した松蔭はいさぎよく自首し捕らわれの身となり、4月11日唐丸籠で天城山を越え、江戸伝馬町の獄へ送られた。
この村山邸は、松蔭の居間として使われた二階の天井の低い部屋(隠れの間と言われる)や、掘り下げられた内湯の浴槽がそのまま保存され、松蔭が使ったと伝えられる机や硯箱とともに、幕末開港時の秘話の舞台となった松蔭隠れ家の面影を残している。
<隠れの間>
昔は窓の外には大きな木が沢山植えられておりこの二階は外から見えず、普段は階段を外し天井板を引くと全然分からなくなってしまう仕掛けになっていた。松蔭は昼は二階に隠れ、夜は海岸に出て黒船の様子をうかがっていた。
<吉田松陰>(1830〜1859)
長門国萩松本村で長州藩下級武士の子として生まれた。幼少より秀で、日本の伝統的学問を修め、後に洋学を学ぶ。佐久間象山に傾倒、幕末の日本のおかれた状況を憂慮し、国内にあっては諸外国の圧力に対する準備をし、同時に外国の事情を知ることが急務と考えた。
1853年長崎に来航中のロシア艦で密航を企図するも果たさず、翌年下田に来航したアメリカ・ペリー艦隊に金子重輔とともに渡航を企てたが、渡米は日本の法律で禁じられていたためペリーに拒まれ、柿崎海岸に送り返される。志敗れ自首、一時長命寺に拘禁され、更に下田の平滑の牢に入れられたが、江戸送り後、郷里の萩の獄舎に監禁される。一時軟禁となり、松下村塾で教えたが、1859年江戸伝馬町の獄で処刑、30歳であった。しかし、門下からは、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋ら明治維新に活躍した人物を輩出、その思想的影響は後世に伝わった。(吉田松陰寓寄処の説明文) |
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