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かつてこの場所には、本法寺や報恩寺の東に痕跡を残す小川が南北に流れていた。百々橋の名は、『中昔京師地図』に記されている「百百ノ辻」に由来すると伝えられ、戦国時代の京都を描いた『上杉本洛中洛外図屏風』には、法鏡寺殿(宝鏡寺)の東を流れる小川に木橋が描かれている。
この橋が知られるようになったのは、戦国時代にこの地を中心として有名な合戦がおこなわれたことによる。とくに応仁・文明の乱(1467〜1477)では、この橋から一条戻橋までの一帯が、西軍の山名方と東軍の細川方との主戦場となった。
小川(こがわ)は昭和40年(1965)には埋め立てられ、江戸時代に石橋にかわった百々橋も解体されたが、地域の方のご尽力により、橋材は一時、室町小学校で保管され、その後、洛西ニュータウンの竹林公園内(昭和56年(1981)開園)に移築された。この礎石は百々橋の橋脚を支える4基のうちの1基であり、百々橋をしのぶ貴重な遺産としてこの地に戻された。なお、竹林公園と室町小学校にも礎石が残されている。 |
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橋脚と礎石の位置。 |
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『上杉本洛中洛外図屏風(米沢市上杉博物館所蔵)』に描かれた小川に架かる橋。竹林公園に移築された百々橋と礎石。 |
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百々橋の礎石のある広場(寺之内通)の桜。 |
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