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ここ高台寺月真院は、慶応三年(1867)六月から十一月にかけて、熱烈な勤王主義者であり、孝明天皇の御陵衛士(ごりょうえし:天皇の墓の守護者)と称した伊東甲子太郎ら十五名が屯所とした寺院である。彼らはこの寺院を本拠として活動したため「高台寺党」とも呼ばれている。
伊東は常陸(茨城県)の出身で学問優秀、剣は北辰一刀流の名手であった。元治元年(1864)江戸から京都に移り、新撰組に入隊し参謀となったが、やがて近藤勇や土方歳三らと意見を異にし、遂に慶應三年三月、新撰組と袂を分かち、同志十四名を連れて御陵衛士に任命され、ここを屯所とした。
この中には江戸の試衛館時代からの隊士、藤堂平助の姿もあった。それ以降、薩摩藩の援助を受け、雄藩(勢力の強い藩)をまわってさかんに勤王を説いた。
慶應三年十一月十八日、伊東は近藤勇から接待を受けた帰り、油小路木津屋橋、本光寺前で待ち伏せをしていた新撰組に謀殺され(油小路事件:現場は西本願寺東南方向、高台寺まで行程約4kmのところ)、さらに伊東の遺体を引き取りに来た多くの志士も、新撰組隊士によって斬られ、御陵衛士隊の活動は終止符を打った。
2段目画像は、山門内部の庭園、左奥の庫裏に隊士は居住していたと伝えられる(非公開)。
(現地案内板に加筆)(画像、解説文は、I・Hさんの提供) |
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