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<武家屋敷街>
この附近一帯を鉄砲丁といい町筋が七つ、上から上新丁、下新丁、古丁、中ノ丁、下ノ丁、江戸丁、新建と碁盤の目のようにできている。
ここには扶持取り七十石以下の徒士(かち)屋敷その他が、柏野の新屋敷を加えて六百九十戸あった。
島原城ができた当時から一軒一軒の屋敷には境界の塀がなく、隣家の奥まで丸見えで鉄砲の筒の中を覗いたようだというので鉄砲丁という名称が起こったといわれている。
鉄砲組すなわち歩兵の住居地帯であったからでもある。しかし、安永4年(1775)藩主の命により今日見るような石垣が各戸に築かれた。
町筋の中央を流れる清水は、昔飲料水として利用されていた。 |
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<山本邸>
山本家の初代佐五左衛門は、忠房の先代三河(愛知県)の吉田城主忠利時代から家臣となり、寛延2年(1749)、5代忠祇の宇都宮移封、安永3年(1774)、6代忠恕の島原への所管の所替に際して随行し、その後幕末まで前後13代の城主に仕えた。山本家は城主からの信任が厚く、明治以後は悟郎氏秀武氏と合わせ10代続いている。
5代茂親は寛政2年(1790)に一刀流の免許、文化元年(1804)には荻野流鉄砲術師範、文化8年(1811)大銃術の免許皆伝を得て、代々重職を務めた。
17石2人扶持で、門構えは最後の城主忠和から特別に許されたものである。 |
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<篠塚邸>
この屋敷に住んでいた人は姓を篠塚といい、代々順右衛門を称し祖先は三河(愛知県)深溝であるが、寛文9年(1669)、松平主殿頭忠房が丹波福知山5万石から7万石島原城主として移されたときに従ってきて、明治初期まで11代、8石から13石2人扶持を給され、主として郡方祐筆(書記)や代官などを勤めた。屋敷坪数はこのあたりすべて3畝(90坪)である。 |
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<島田邸>
島田家は藩主松平氏の草創以来の古い家柄で、藩主の転封にともなって三河国吉田、丹波国福知山と転じ、寛文9年(1669)、ここ島原に入った。歴代地方代官・郡方物書などを勤めたが、幕末には御目見獨禮格で7石2人扶持を受け、材木奉行・宗門方加役・船津往来番などの重職についた。
このあたり一帯は中・下級武士の屋敷で、一戸当たりの敷地は3畝(90坪)ずつに区切られ、家ごとに枇杷、柿、柑橘類などの果樹を植えていた。道路の中央を流れる清流は、往時の生活用水路である。 |