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京都御所は、築地塀(ついじべい)に囲まれた南北約450m、東西約250mの方形で、面積は約11万uである。南に白砂敷きに南庭を備えた紫宸殿(ししんでん)が高くそびえ立ち、その北西に清涼殿(せいりょうでん)、北東に小御所(こごしょ)、御学問所(おがくもんしょ)がいずれも東に面して建っている。
小御所と御学問所の前は、白砂敷きで空間を造りだし、雄大な御池庭(おいけにわ)を配している。その北側にある白壁塀の門をくぐると御常御殿(おつねごてん)、さらに北に、孝明天皇の御書見の間として建てられた迎春(こうしゅん)、その廊下伝いに熱暑の夏を過ごすための御涼所(おすずみしょ)、吹き抜けの雅趣豊かな渡り廊下に導かれる茶室聴雪(ちょうせつ)と続く。
最北部は、小塀に囲まれて皇后宮の常御殿と女御(にょうご)などの住まいであった飛香舎(ひぎょうしゃ)がある。飛香舎はその南庭に藤が植えられているため藤壺ともいわれている。寝殿造り、書院造り、数寄屋風など、歴史上代表的な建築様式を調和させ凝縮している京都御所は、文化財としても高い価値を有している。
京都大宮御所、仙洞御所(せんとうごしょ)、桂離宮、修学院離宮とともに皇室用財産(国有財産)として宮内庁が管理している。 |
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<紫宸殿>(ししんでん)
安政2年(1855)に再建された紫宸殿はm即位礼などの重要な儀式を執り行う最も格式の高い正殿であり、京都御所の象徴ともいえる存在である。大正天皇・昭和天皇の即位礼もここで行われた。
入母屋檜皮葺の高床式宮殿建築で、間口約37m、奥行き約26.3m、棟高20.5mの純木造平屋建てである。正面に十八段の階段を有し、四方に高欄を付けた簀子(すのこ)をめぐらしている。
内部は寝殿造りの例により中央の母屋の四囲に廂(ひさし)があり、母屋と北廂の間は絹張り襖の賢聖障子(けんじょうのしょうじ)で仕切られ、天井板はなく化粧屋根裏である。四囲は胡粉(ごふん)の白塗り地板に黒漆塗りの桟で格子を組んだ蔀戸(しとみど)で、開けるときは内側に金物で釣り上げる。六枚の板を透かし張りにした簀子(すのこ)の正面上にある紫宸殿の扁額は、岡本保考の筆で、嘉永時の炎上のときに賢聖障子と共に類焼をまぬがれている。
階段脇には、東に左近の桜、西に右近の橘があり、前面には白砂の南庭が広がり、建物と同様に庭も重要な役割を果たしている。 |
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左画像は、紫宸殿を囲む回廊。赤い門は承明門です。右画像は、京都御所南面正門の建礼門。内郭の承明門と相対する。 |
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<諸大夫の間>(しょだいぶのま)
正式な用向きで参内した時の控えの建物。最も格の高い「公卿の間」、諸侯・所司代の控えの「殿上人の間」、それ以外のものの控えの「諸大夫の間」の三室からなり、それぞれ襖の絵にちなんで、「虎の間」(岸岱(がんたい)筆)、「鶴の間」(狩野永岳筆)、「桜の間」(原在照筆)とも呼ばれている。 |
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<承明門>
紫宸殿の正面にある内郭の承明門。築地塀にある建礼門と相対する。 |
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<清涼殿>(せいりょうでん)
紫宸殿の背後の北西部に東面して建ち、別棟として御常御殿が建てられるまでの永い間、天皇の日常の生活の場として使用されていた。被災や寺社への下賜により建て替えを繰り返し、現在のものは平安時代の内裏のものより小さくなっているが、比較的よく古制を伝えている。清涼殿の東側に広がる東庭は、白砂敷きで、正面に呉竹、南寄り軒下近くに漢竹(かわたけ)が籬(ませ)に囲まれて植えてある。北側に20p程の落差のある滝口があり、そこから落ちた御溝水(みかわみず)は、御溝に沿って楚々とした流れを作っている。
建物は、入母屋檜皮葺の寝殿造りで紫宸殿と同じであるが、床ははるかに低く、内部は間仕切りも多くなっていて、日常の御住居に適するrように工夫されている。東側は弘廂(ひろひさし)といい、その北側に部屋に直角に立てられた絹張りの衝立昆明池障子(こんめいちのしょうじ)(模造)、南側には年中行事を記した障子(衝立)が用いられている。南廂を「殿上の間」といい、ここに蔵人(くろうど)や公卿などが伺候し奉仕した。殿上人(てんじょうびと)というのは、ここに昇殿できる者のことである。東廂には、床を漆喰(しっくい)で固めた石灰壇、「昼御座」(ひのおまし)と呼ばれる昼の間の御座所、そして小部屋が二つ並んでいる。さらに奥の母屋には獅子狛犬に守られて御帳台が置かれ、天皇の御休息にあてられた。さらに、天皇の御寝室として四囲を壁で囲んだ塗籠(にるごめ)造りの夜御殿(よんのおとど)がある。正面からはうかがい知れない西廂は、奥向きにふさわしく御湯殿上(おゆどののうえ)、御手水間(おちょうずのま)、朝餉間(あさがれいのま)などの部屋が並び萩壺に面している。 |
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<小御所>(こごしょ)
紫宸殿の北東、御池庭に面して建つ入母屋檜皮葺の小御所は、平安朝の内裏には見られない御殿である。天皇が将軍や諸侯と対面される場所ともされた。王政復古の大号令が発せられた後の「小御所会議」は慶応3年12月9日の夜、ここで行われた。寝殿造りを基本にしながら、母屋は三室に仕切られ、畳を敷きつめて天井を張った書院造り風になっている。蔀(しとみ)は半蔀で上部を外側に釣り上げ、下部ははめ込め式である。昭和29年(1954)に焼失、昭和33年(1958)
に復元された。 |
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<蹴鞠の庭>
蹴鞠(けまり)が行われる庭。小御所と御学問所の間の四角い庭を鞠懸(まりかがり)、また蹴鞠の庭という。蹴鞠は、昔の貴人の遊び。鹿革で作った鞠を数人で地面に落とさないように蹴って遊ぶ。 |
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<御学問所>
小御所の北に位置し、蹴鞠の庭をはさんで東に面し、入母屋檜皮葺きの御殿である。格子の蔀に代えて舞良戸(まいらど:遣戸(やりど)、引戸(ひきど))で四囲を閉ざす点や、床や違い棚を備えている点で、一層書院造りに近い建築様式である。必ずしも学問のためだけの御殿ではなく、和歌の会などにも用いられた。 |
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<御池庭>(おいけにわ)
小御所と御学問所の前に(東側)ある御池庭。文字通り大きい池を中心とした回遊式庭園で、前面には洲浜があり、その中で飛石を配して舟着きに導いている。右手にゆったりと弧を描いた欅橋(けやき)が架かり、対岸にはこんもり繁る樹木を配し、苑路から様々に変化する景色を楽しむことができる。
。曇天であったが、無風状態のため池の水面に、庭の景観が逆さに写っている。 |
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<御常御殿>(おつねごてん)
御学問所の北に位置し、京都御所の中で最も大きな御殿で、内部は15室の書院造りの様式である。天皇が日常生活を営まれる御殿は、平安遷都当初の仁寿殿(じじゅうでん)から清涼殿に移ったが、やがて清涼殿も居住様式の変化に対応できなくなったことから、豊臣秀吉の行った天正度の造営に際して、御常御殿が別棟として建てられるようになった。
安政2年(1855)の再建になる現在の御常御殿は、実用性を重んじ機能的な造りに加え、剣璽を奉安する「剣璽の間」など格式のある間も備えられている。御常御殿から奥(北側)はいわゆる奥向きの御殿といわれている。 |
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御池庭の北側、御常御殿の横(東側)にある御内庭(ごないてい)。細い池が南北にできている。 |
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桧皮葺屋根実物模型 |
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京都御所の松。幼木からのきめ細かな手入れを実感する。
桓武天皇は、延暦3年(784)に都を奈良の平城京から京都の長岡京へ移され、同13年(794)、さらに平安京に遷都された。平安京は、現在の京都市街の中心地に当たるところに造営され、南北約5.3q、東西約4.5qの方形で、東西の中央を南北に通ずる朱雀大路(現在の千本通)によって左京(東方)と右京(西方)に二分、それぞれ大路・小路によって碁盤の目のように整然と区画されていた。
そして、都の北端にある一条大路に内接して南北約1.4q、東西約1.2qの大内裏(宮城)があり、政務や儀式を行う朝堂院、豊楽院(ぶらくいん)、太政官(だいじょうかん)その他の官庁が置かれていた。朝堂院は大内裏の南部中央に朱雀大路に南面し、院内の北部には正庁である大極殿(現在の千本丸太町あたり)が建っていた。ちなみに、今の平安神宮の社殿は当時の大極殿を縮小して復元したものである。
皇居は内裏(だいり)と呼ばれ、天皇のお住まいであった。大内裏の中央東寄り、朝堂院の北東に位置し、南北300m、東西220m余りの地域を占めていた。正殿である紫宸殿のほか、清涼殿、弘徽殿(こうきでん)、麗景殿(れいけいでん)、飛香舎(ひぎょうしゃ)など王朝文学でなじみの深い宮中殿舎が建ち並んでいた。
遷都から166年を経た天徳4年(960)には内裏は初めて火災に遭い、時の村上天皇は冷泉院(後院)を仮皇居とし、内裏は直ちに再建された。しかし、その後も内裏は度々火災による焼失と再建を繰り返し、内裏完成までの間は貴族の邸宅などを仮皇居に充てられるようになった。いつしかこれを里内裏と呼ぶようになり、平安時代の末期には大内裏にある内裏は余り使用されず、里内裏を日常の皇居とされるようになった。この間、大内裏の大極殿等も再三火災を起こし、相次ぐ戦乱等のために再建されることもなく、ついには内裏も同様の経過をたどって、全くの廃墟と化すこととなった。
現在の京都御所は、土御門東洞院殿といわれる里内裏の一つで、平安内裏の廃滅ろ前後して用いられることが多くなり、元弘元年(1331)光厳天皇がここに即位されてから、明治2年(1869)の東京遷都までの永きにわたり皇居とされるようになった。しかし、この間幾度となく火災と再建を繰り返し、天明8年(1788)の類焼による再建の際、幕府は老中松平定信を総奉行とし、当時の故実家裏松固禅(裏松光世)らの考証によって紫宸殿を始め殿舎の意匠を復興するなど、古制への復帰を図り、新内裏は寛政2年(1790)に完成した。その後、この殿舎も嘉永7年(1854)に焼失したが、その再建に当たって幕府は、寛政時の内裏の計画をほとんど踏襲し、翌安政2年(1855)に異例の速さをもって再建を果たし、今日に至っている。(現地解説文より) |