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文久2年(1862)の寺田屋事件の場所である。坂本龍馬の定宿で、慶応2年、幕府の役人に襲われたが、お龍が入浴中に役人に囲まれていることに気づき、裸で2階の龍馬と三吉慎蔵に知らせた事は有名である。龍馬の部屋もそのまま残っており、寺田屋事件の刀傷や銃の弾創が、100年以上も経た今でも店の柱に残っている。生きた坂本龍馬の息吹を感じ取れるところである。現在も宿屋であるので、宿泊できる。
ということになっていたのだが、実は鳥羽伏見の戦いで寺田屋は焼失したということがわかった。現在の寺田屋は、再建された建物で当時のものではないことになる。 |
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文久2年(1862)4月、尊皇攘夷派の先峰であった薩摩藩士9名が殺傷されるという明治維新史上有名な寺田屋騒動が起こった所である。
当時、薩摩藩には藩主の父、島津久光を中心とする公武合体を奉ずる穏和派と、勤王倒幕を主張する急進派との二派があったが、久光は急進派の動きを押さえようとして、兵千余名を率い京都へ入洛せんとした。これを知った有馬新七ら三十余名の急進派同志は、文久2年(1862)4月23日、関白九条尚忠、所司代酒井忠義を殺害すべく、薩摩藩の船宿であった寺田屋伊助方に集まった。これを知った久光は藩士奈良原ら8名を派遣し、新七らの計画を断念さすべく説得に努めたが失敗、遂に乱闘となり新七ら7名が斬られ、2人は重傷を負い、翌日切腹した。
慶応2年(1866)1月21日、坂本龍馬も伏見奉行所の捕方に襲われたが、難を逃れた。寺田屋は鳥羽伏見の戦(1868)に罹災し、焼失した。現在の建物はその後再建されたものである。
後ろの広場にある殉難碑は明治27年(1894)の建立で、有栖川宮熾(たるひと)親王の筆になる篆額(てんがく)を掲げる。 |
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