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「旧見付学校」は、明治5年(1872)の学制発布後まもない明治8年(1875)8月7日に落成した。現存する日本最古の擬洋風木造小学校の校舎です。当初は4階建てだったが、就学児童の増加に伴い、明治16年(1883)に3階部分を増築し、今の5階建てとなった。5階は太鼓楼で、早朝の登校の合図や正午の時報が打ち鳴らされていたといわれている
見付学校は大正11年(1922)3月に閉校し、小学校としての役割を終えたが、その後、見付中学校(現磐田南高)・柔道場・裁縫女学校・教員養成所・陸軍病院・磐田病院・郷土館などに使われた。
昭和44年(1969)に、北側にある磐田文庫とともに国指定史跡となり、現在は、教育資料館として人形による明治時代の授業風景の再現や明治から昭和初期にかけて使われた教科書や教具、また昔の遊び道具・民具などを展示している。三世代でここを訪れれば必ず楽しい一時を過ごすことができる。お勧めです。
<二つ並んだ入口>
見付学校の玄関には、入口が二つ並んでいる。ほかの学校にはあまり見られない特徴で、向かって右が男子、左が女子の出入口だった。内部も中央で仕切られ、教室もそれぞれ別だった。 |
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子どもは男女の別なく、みな学校へ通う決まりだったが、初めの頃、女子児童は少なかった。各県では女子児童の就学率向上に力を入れ、女子児童の数は次第に増えていった。
女子教室では、普通の教科のほかに裁縫や家事の授業が行われた。女子には、勉強より技術の習得を望む親たちが多かったからです。目標の「男女同質の教育」への道は、まだまだ遠いものだった。
<石盤と紙盤>
石盤は、粘板岩などを薄い板状にし、木の枠をつけてノート代わりに使った。紙盤は、厚紙を使った珍しいしゃれた物で、石盤と同様に使われた。 |
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<明治6年開校当時の教員>
正教員 |
中等教授2名、上等助教1名、一等授業生1名 |
臨時の雇教師 |
7名(教員免許を持たない授業生・代用教員)、寺子屋の師匠など |
浜松県では教員不足解消のため、明治8年(1875)3月に浜松瞬養学校を開設し、2〜4ヶ月修行期間で教員を養成した。(入学年齢15歳以上)。
教官は文部省から派遣された。明治20年(1887)以降は、正規の教員(訓導)が代用教員の数を上回っている。 |
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<旧見付学校の構造>
見付学校には、さまざまな工夫が施されている。傾斜状の土地を平らにするために積まれた城のような石垣、耐震性に優れた斜め張りの床など、日本古来の建築様式を加味した構造となっている。
見付学校の建築を手掛けた伊藤平右衛門は、尾張藩の御抱大工であったため、屋内階段の取り方、塔の積み重ね方、骨組みの取り方などに城の天守や櫓の雰囲気が出ている。基本的な工法は純和風です。和釘、かすがい、逆目針、竪樋持などの部材が使われている。 |
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<使用した和釘>
使用した釘は頭の丸い洋釘ではなく、日本古来の和釘を使用している。和釘は利きがよく、表面は錆びても中は錆びにくく長持ちする。洋釘は明治初期にはフランスなどからの輸入品で、明治末になって日本で大量生産されるようになった。左→替折釘(かいおれくぎ)。右→巻頭釘(まきかしらくぎ)
<丈夫で美しい漆喰大壁塗り>
見付学校の丈夫さの一つは、厚くしっかり作られた壁によって支えられていることです。壁の内部は木の下地が何本も斜めに張られ、耐震構造としても優れている。その上に壁瓦を釘打ちし、四隅から下げ麻を垂らして幾重にも白い漆喰が塗られている。漆喰は風雨にも強く不燃素材でもあり、建物を一段と美しく見せている。
建物の四隅は黒漆喰で石をはめたように見せ、全体を引き締めている。(大壁とは柱を表面に見せないように仕上げた壁) |
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<4階> 左画像
応接室や校長室であったと言われているが、詳しい記録は残っていない。時代によっていろいろに使われていたようです。新築当時は3階であり、窓から屋根の上に出ることができた。
<5階> 右画像
5階は太鼓楼で、かつては「伝 酒井の太鼓」(三方原合戦のとき、酒井忠次が徳川家康の窮地を救ったと伝えられる太鼓)が置かれていた。(現在は1階に展示中)。この学校ができた明治8年(1875)から大正中期頃まで、児童の登校の合図や正午の時報として毎日打ち鳴らされていた、当時は小使いさん(用務員)が叩いていたが、その後太鼓当番の上級生が叩くことになったそうです。
この太鼓の音は児童だけではなく、見付町民の生活の音としても親しまれ、ここから1q離れたところでもはっきりと聞こえたと言われている。 |
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見付学校を第12中学区内第1番小学校にと地元の熱意で、明治7年堂宮棟梁伊藤平右衛門の設計で着手、翌8年に開校した。
基礎の石垣は遠州横須賀城の石垣を払い下げを受けて利用し、間口12間・奥行き5間の木造洋風2階建てに屋上2層の楼を完成させた。玄関はエンタシス様式の飾柱、分銅付き窓の日本最古の現存木造洋風校舎です。明治16年(1883)に2階天井裏を改築し、現在の3階2層になった。
これが明治初期に建てられた学校建築なのかと驚く。この当時、地域の人々は、このしゃれた建物を、しかも学校の校舎をどういう思いで見ていたのでしょうか。かつては学校は、地域の中心とか文化の中心とかと言われていたが、これを見ればなるほどと誰もが納得する。とにかく、遠くからでも目立つ、江戸時代の城のように。それに比べて、現在の学校建築はどうなっているのかと考えさせられる。上の画像は最上階からの眺望。 |