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出島は寛永13年(1636)に、市内に雑居していたポルトガル人を居住させるために築かれた人工の島です。その後、寛永16年(1639)の鎖国令によってポルトガル船の来航が禁止され、出島は一時無人の島になったが、寛永18年(1641)、平戸にあったオランダ商館が出島に移され、以降、安政の開国までの218年間、我が国で唯一西洋に向けて開かれた窓となり、海外から新しい学術や文化が伝えられた。
出島内にはオランダ商館員の住まいや倉庫などが建ち並び、家畜を飼い様々な植物が植えられていた。幕末から明治にかけての港湾改良工事などで周囲は埋め立てられ海に浮かぶ扇形の原形が失われたが、日本の近代化に大きな役割を果たした貴重な歴史的文化遺産であることから大正11年(1922)に国の史跡に指定されている。
<カピタン部屋>
商館長のことをカピタンと呼んでいた。このカピタン部屋は出島を代表する大きな建物で、商館長の住まいであると同時に、商館事務所や来客をもてなす場としての機能をもっていた。
屋根付きの三角外階段がある。 |
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<ミニ出島>
ミニ出島は、川原慶賀が描いたといわれる「長崎出島之図」をもとに、1820年(文政3年)頃の出島を現した1/15で、昭和51年(1976)に長崎市が作成した。このうち、平成12年(2000)3月に5棟(ヘトル部屋、料理部屋、二番蔵、一番蔵、一番船船頭部屋)、平成18年(2006)3月にさらに5棟(カピタン部屋、乙名部屋、拝礼筆者蘭人部屋、三番蔵、水門)の建物を現地に復元した。 |
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<一番船船長の部屋>
19世紀初頭の出島には、夏になるとオランダの貿易船が2隻来航するのが通例だった。そのうち、先に到着する「一番船」の船長が、出航する11月頃まで滞在するのがこの部屋です。船員たちは船で暮らした。室内には、嘉永4年(1851)に来航したオランダ船船長デ・コーニングの「私の日本滞在記」などを参考に、当時の家具調度類を再現してある。 |
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<一番船船頭の部屋>
オランダ船が港に停泊していた時、2階西側に船長の一人が滞在し、東側は商館事務員の住居として使われていた。2階を居住用途にあて、1階は主に倉庫として用いるのが、出島のオランダ人用建物の一般的な使われ方でした。1階に不良品の砂糖、秤(はかり)と錘(おもり)、木炭が収納されたと記録にある。基本的なつくりは当時の長崎町人の住まいとさほど変わらない。
<倉庫>
出島内の建物の多くは1階が倉庫になっていた。19世紀初頭のオランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフの記録によれば、この土間には天秤と分銅、木炭、砂糖の不良品が置かれていた。天秤は、当時の出島で銅や砂糖の計量に使われたものです。オランダの財団法人デルフト大学計量博物館から出島復元のため寄贈された。 |
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<青銅製大砲>ブロンズ製12ポンド砲
青銅製大砲は、昭和29年(1954)浦上河口付近で発見された。オランダ船の絵姿と、オランダ東インド会社の社章「VOC」および「AMSTERDAM ANNO1640」の文字が刻まれている。このことから寛永17年(1640)に鋳造界の名門アスウェーラス・コスター(16704〜61)によって製作され、アムステルダム支部所属の船舶に搭載されていたと考えられる。
<鉄製大砲>
昭和39年(1964)に、浦上川河口付近から引き上げられた大砲。もとはオランダ船に搭載されていたもので、何らかの事情により海中に残さた。長崎港と浦上川河口部では、オランダ船の座礁や船の搭載砲を海中に落とした記録などが残っている。アムステルダムをあらわすAとオランダ東インド会社をあらわすVOCのマークが刻まれている。 |
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<キャピタン橋>
キャピタン橋と葡萄棚は、庭園整備の一環として、昭和40年(1965)に設置された。寛政10年(1798)の大火前後に描かれた出島の絵図を参考につくられている。絵図には、橋の下の用水池が、この付近の菜園の水まきに使われていた様子や、葡萄棚の上の涼所が描かれている。絵師川原慶賀以降に描かれた出島図には、橋と葡萄棚がみられなくなる。
<石造製日時計>(複製)
この日時計の実物は、商館長ヘルマン・クリスティアン・カステンス(明和3〜4(1766〜1767)滞在)によって出島の花園に設置された。
この日時計は、日光の影により朝6時から夕方6時まで測ることができる。真ん中の南北を示す線が12時です。
現在では、明石市を通る東経135度が日本の標準子午線とされている。長崎市は明石市より西にあるため、日時計で時間を計ると、実際より遅れた時間になる。 |
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<南側護岸石垣>
この石垣は、出島の南側護岸石垣の西側部分にあたる。平成15〜16年(2003〜4)に行った発掘調査により、上部は欠損していたが、6〜7段にわたる石垣が発見された。
当時は海に面し、高波や台風の影響を受けていたため、石垣からは度重なる修復の痕跡が発見された。現在は石積みの修復を行い、欠損部は新補材を用いて復元している。
石垣の上部には、高さ9尺(2.7m)の練塀を再現している。
<荷揚場石垣>
前面の石垣は出島の西側にあった「荷揚場」の石垣です。荷揚場は、オランダ船の積荷の揚げ降ろしをする場所でした。平成9年(1997)の発掘調査で、当時の石垣の一部が見つかり、石材や石積み工法の違いから、出島建造当初から、石垣が3回にわたり築足(つきた)しされていることが分かった。残っていた石垣は修復を行い、欠損していた部分は石積みの復元を行った。 |
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<南側護岸石垣>
この石垣は、出島の南側護岸石垣の東端部分にあたる。平成8年度〜9年(1996〜7)に行った発掘調査により、高さ約1.2m、4段に石積みが発見された。安山岩系の自然石や割石が用いられ、底辺を揃えることを意識しながら積み上げた布積みという工法が用いられている。石垣中央部から上部にかけては、積石が欠損していたため、当時の工法を用い、復元を行った。 |
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<シーボルトの桜>
この桜はシーボルトによって1866年頃ヨーロッパに紹介され、初めて見る桜にヨーロッパ人は魅了され、広まった。ヨーロッパでは、日本の有名な浮世絵師、葛飾北斎の名前をとって、ホクサイと呼ばれた。
この桜は八重桜の一種です。普通は、桜の花には香りがないが、この花は芍薬(シャクヤク)のような香りがする。花は長い期間咲き、薄いピンクで7個から12個の花びらをつける。
140年後に長崎に帰ってきた。
<シーボルト里帰り植物>
商館医シーボルト(1823年来日)が来日中にジャカルタ(旧バタヴィア)を経由してオランダへ送った約260種の植物のうち、ライデン大学付属植物園で現在も生育しているものの中から、日蘭交流400周年を記念して出島へ里帰りさせた植物を植えている。
植物はカエデ科のイロハモミジ、ブドウ科のナツヅタ、マメ科のフジ、アケビ科のアケビ、ニレ科のケヤキの5種です。 |
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<デジマノキ>
デジマノキ(和名コパールノキ)は、東南アジアに分布するナンヨウスギ(南洋杉)科の常緑高木で、学名はアガチス・アルバ(Agathis dammara
L.C.Rich.)という。この木は、オランダ人が東洋貿易の根拠地としたジャカルタ(旧バタヴィア)から幕末の頃この地に移植したもので、日蘭交流の貴重な記念樹といえる。 |
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当時のオランダ船の模型です。 |