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<史跡 川原寺跡>
川原寺は、法名を弘福寺(ぐふくじ)ともいわれている。どの創建年代については不明であるが、『日本書紀』桓武天皇2年3月の条に川原寺で経を写すという記事があることや、伽藍配置や瓦の文様が天智天皇に関連する大津宮の南滋賀廃寺や太宰府の観世音寺と類似することから、天智天皇の時代(662〜671)に斉明天皇の冥福を祈って建てられたものと考えられる。 |
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昭和32年(1957)33年(1958)の発掘調査の結果、中金堂(現弘福寺の場所)の前には、東に塔、西に西金堂が建ち、中門からでた回廊がこれらを囲むようにして中金堂へとつながっていることが判明した。
また、中金堂の北には講堂があり、これを取り囲むように僧坊が3面にある。川原寺で使われていた複弁八弁蓮華文軒丸瓦は川原寺式軒瓦(のきがわら)と呼ばれ、天武天皇の時代には近畿・東海地域の古代寺院に多く見られ、壬申の乱で功績のあった氏族の寺院と関係のあったものと考えれている。
上の画像で遠景は橘寺である。 |
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現在では弘福寺境内(上の2枚の画像)にある瑪瑙(めのう・白大理石)の礎石と公園内の建物復元基壇が当時をしのばせている。 |