|
|
|
|
|
|
|
|
<新暦調御用所(天文屋敷)跡>
当地は天正十八年徳川家康が江戸城に入府する迄、上野国大胡領主牛込氏の進出とともに、三代にわたる居館城郭の一部であったと推定される。牛込氏の帰順によって城は廃城となり、取り壊されてしまった。正保二年、居館跡(道路をへだてた隣接地)に神田にあった光照寺が移転してきた。
その後、歌舞伎・講談で有名な町奴頭幡隋院長兵衛が、この地で旗本奴党首の水野十郎佐衛門に殺されたとの話も伝わるが定説はない。享保十六年四月、目白山より牛込・麹町・虎の門まで焼きつくした大火により、この地一帯は火除け地として召上げられさら地となった。明和二年、当時使われていた宝暦暦の不備を正すため、天文方の佐佐木文次郎が司り、この火除地の一部に幕府は初めて新暦調御用所(天文屋敷)を設け、明和六年に修正終了したが、天明二年近くの光照寺の大樹が観測に不都合を生じ、浅草鳥越に移転した。佐佐木は功により、のちに幕府書物奉行となり、天明七年八十五歳で没す。墓は南麻布光林寺。以後天明年中は火除地にもどされ、寛政から慶応までの間、二〜三軒の武家屋敷として住み続けられた。
弘化年中には御本丸御奥医師の山崎宗運の屋敷もあった。この時代の袋町の町名は、今に至るまで変わることはなかった。近世に入ってからこの地に庭園を構えた高級料亭一平荘が開業し、神楽坂街をひかえ繁栄していたという。昭和二十年の大空襲により神楽坂一帯はすべて焼失し焼跡地となった。
戦後は都有地として高校グランドがあったが、昭和三十年日本出版クラブ用地となり会館建設工事を進めるうち、地下三十尺で大きな横穴を発見、牛込城の遺跡・江戸城との関連などが話題となり、工事が一時中断した。昭和三十二年会館完成現在に至っている。
<新宿区保護樹林>
樹齢250年以上のイチョウの木。戦時中、焼け野原となった街にこのイチョウが焼け残っており、それを目印に戦災した人々が戻ってきたといわれている。幹には戦災の時の傷(裂け目)が残っており、そこからトウネズミやケヤキが生えており、生命力を感じさせる。イチョウやシイの木は水分を多く含むため、焼失せずに残った木が今も数多く区内に存在している。 |
|