 |
|
 |
|
 |
|
明倫館は、享保3年(1718)5代藩主毛利吉元が藩校の創建を命じ、堀内(萩城三の丸)に完成する。以降、館の拡張を行ってきたが、弘化3年(1846)13代藩主毛利敬親が時勢の進展に伴い移築を命じ、嘉永2年(1849)江向に新明倫館が完成し、移転する。
明治3年(1870)藩校としての明倫館は廃止される。 |
|
 |
|
 |
|
<明倫館遺構 感徳門>
観徳門(かんとくもん)は、旧藩校明倫館の遣構で、孔子を祀った聖廟の前門である。明倫館の正門(南門)と聖廟との中間に位置し、はん水に架かる万歳橋を渡り、聖廟を巡らす石柵内への入口になっていた。
形式は木造瓦棒銅板葺き、左右に唐破風を備えた平唐門で、桁行2.5m、梁間1.45m、両袖に連子格子の塀をつけている。出入口は一間一戸、扉は上部に連子を入れた桟唐戸で両開きになっている。
全体に木鼻や操形が多く、装飾的要素が目立ち、構造的にも大仏様や禅宗様の要素を持つ珍しいものである。建築年代は、新明倫館が再建された嘉永2年(1849)で、本願寺萩別院に移されて客殿門となっていたが、昭和57年(1982)3月、明倫館の旧地である明倫小学校敷地内に移された。 |
|
 |
|
 |
|
<明倫館遺構 南門>
この門は明倫館の正門として建てられたもので、明倫館全体からみて南にあたるので南門と名付けられたが、通称は表御門と呼ばれていた。
形式は、切妻造、本瓦葺の四脚門で、藩主が聖廟を拝する春秋の孔子祭や公式行事以外は扉を開くことはなかった。
南門東妻の板かえる股の裏側に刻銘があり、弘化5年(1847)正月に建立されたことが明らかになっている。また、かえる股の鳳凰円紋の彫刻は、奈良法隆寺宝物の螺鈿(らでん)唐櫃(からびつ)の円紋から倣ったことが明らかになった。
明治15年(1882)に西田町の本願寺山口別院萩分院の表門として移築されていたが、平成15年(2003)2月に本願寺山口別院から南門の寄付を受けた。これを機に萩市は移築事業に着手し、122年ぶりに建築当時の位置に復原した。 |
|
 |
|
 |
|
<明倫館遺構 万歳橋>
嘉永2年(1849)江向に新築された明倫館には、多くの藩校と同じように聖廟の前に水を巡らし、その中央に石橋が架けてあった。はん水はん池ともいい、中国上代の形式を模倣したもので、諸侯の学校であることの象徴である。はんは半と同じ意味で、聖廟周囲の南半分にしか水がないことを意味している。
橋は花崗岩で造られており、長さ4.05m、幅員3.15mの直橋で、橋脚はなく両岸の石垣の橋台に2本のアーチ式橋桁を渡し、その上に10個の短冊石(たんざくいし)を横に並べて造られており、中国風のデザインを施した太鼓橋である。(万歳橋は萩城跡指月公園内にある。) |
|
 |
|
 |
|
<旧萩藩校明倫館「明倫館碑」>
明倫館は、5代藩主毛利吉元の代の享保4年(1719)に、萩城三の丸追廻し筋(堀内)に開校した。敷地は940坪であった。
それから、130年後、13代毛利敬親の代の嘉永2年(1849)に、萩城下中央の江向の地に敷地15,184坪、建物総坪数11,328坪、練兵場3,020坪の広大な規模の新明倫館が完成して移ったものである。
明倫館碑は2基あり、向かって左側は明倫館創建21年目の元文6年(1741)、6代藩主毛利宗広が創立の由来を伝えるために建てたものである。玄武岩の石碑には2代学頭山県周南撰文、3代学頭津田東陽書による「明倫館記」が刻まれている。
右側は嘉永2年(1849)13代藩主毛利敬親が新明倫館の開校を記念して10代学頭山県太華に「重建明倫館記」を撰ばせて建てたものである。国指定史跡 |
|
 |
|
 |
|
 |
|
 |
|
 |
|
 |
|
<有備館>
有備館は、剣術と槍術の稽古場で、藩校明倫館内に建築された。木造一重入母屋造り桟瓦葺きで平屋建て、桁行37.88m、梁間10.8mの南北に長い建物です。内部の北半分は板間39畳の剣術場、南半分は土間54畳を槍術場とし、各その西側を藩主の上覧場とし、中間に藩主臨場などの場合に使う控室がある。ここは藩士の練武のほか、他国(他藩)からの剣槍術の修業者との試合場、すなわち「他国修業者引請剣槍術場」でもあった。土佐の坂本龍馬も来萩しここで試合をしたといわれている。(国指定史跡)
<坂本龍馬と萩>
文久2年(1862)1月14日、坂本龍馬は土佐勤王党首領武市瑞山の手紙を久坂玄瑞に届けるため萩を訪れた。龍馬は萩に9日間滞在する。その年の3月24日、龍馬は突然土佐を脱藩。そして薩長同盟、大政奉還など歴史に残る偉業を成し遂げてゆく。
一体、萩で何があったというのか。
幕末欧米列強はアジア各地を植民地とし、日本の独立も危ぶまれていた。久坂玄瑞は長州藩を訪れた龍馬に、師・吉田松陰の草莽崛起論(そうもうくっきろん)を説く。日本を変革するのは草の根に隠れている自分たちで、そのためなら藩は滅んでも構わぬという凄まじい決意であった。そして龍馬はこの直後、土佐を脱藩してしまった。萩には今も、人々の魂を奮い立たせる何かがある。 |