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島左近(勝猛)陣跡。「治部少に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と謡われ、当時4万石の身代であった石田三成がその半分の高禄で招いた武将。「日本第一の勇将」「鬼神をも欺く」勇将とたたえられた。
そのずば抜けた采配の中でも関ヶ原の合戦前日、僅か500名の兵を率いて戦った奇襲作戦「杭瀬川の戦い」は、西軍すべての兵士達の動揺を一気に抑え士気を大いに高めた勝利として高く評価されている。
前日の杭瀬川の戦で中村隊を破り、本戦では石田隊の先手として布陣する。黒田・田中隊と奮戦後、家康本陣に迫ろうとしたが、銃弾を受けて討ち死にしたともいう。鬼の左近と称され、謎に満ちた猛将像は諸書に様々な姿で描かれている。 |
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<竹矢来>
竹や丸太を粗く組んで作った臨時の囲いのこと。すき間が四角になったものを角矢来といい、菱形になったものは菱矢来という。
これは敵の容易な進入を防ぐのに利用したもので、三成は正面にこの柵を二重にめぐらし、島と蒲生の指揮する二隊を前面と中間に配し、自分自身は警護の兵と山頂に陣取った。
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