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中村家は、鎌倉時代から続く名門で、文明15年(1483)この地に屋敷を構えた。徳川家康の次男(於義丸:後の結城秀康)が誕生した家である。
昭和48年(1973)、主屋が大規模で質が良く内部の板戸等古い建具も残されているということで、重要文化財に指定された。平成13年(2001)から15年にかけて解体復元工事を実施し、江戸時代前半の貞享5年(1688)頃の建造物として現代によみがえった。 |
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重要文化財に指定されているには主屋である。主屋は約3,000uの屋敷のほぼ中央に、正面を南に向けて建つ。
主屋の建築年代は、大棟の瓦葺に使われていた鳥衾(とりぶすま)(現在も棟に使用中)と、貞享5年(1688)の篦(へら)書きがある鬼瓦との取り合いが一致したことから、そのころと考えた。
主屋の規模は、桁行(間口)21.3m、梁間(奥行)11.2m、平面積238.7uと大規模で、屋根は寄棟造の茅葺(茅材は葭(よし))である。
特徴的なのは、棟通りと梁間方向中央の柱通りを揃え、これを境として、桁行方向に部屋が食い違いの配置になっていることである。
主屋の構造は、側柱(外回りの柱)は省略なく、部屋境は2か所を除いて柱を1間ごとに、礎石の上に直接立て、おもに貫(ぬき)で相互の連結がはかられている。
以上のほか、主屋の特徴としては、柱の面取りに規則性があること、3間四方の部屋が南側と北側にそれぞれあること、納戸構・押板・格子窓といった古民家に共通するものを備えることなどがあげられる。 |
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<格子窓>
南に面したこの位置を格子窓にして採光や出入りを制限することは、古民家の特徴の一つである。また、中村家住宅では格子のすぐうしろに障子が入り、その内側が雨戸となる。これでは風雨により障子の傷みが激しい。なぜこのような配置にしているか、理由は不明である。
<鏡戸>
枠は桧材、中の板は桂材を使用している。枠は今回の修理で漆を塗り直したが、建築当初の建具であるあることがわかった。ヒロマの板戸も建築当初の建具と考えられ、開閉により消耗、破損が避けられない建具が、今日まで伝えられていることは、大変貴重である。 |
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<四畳半>
この部屋は、主屋の中で最も上等に造られている。
中村家住宅は柱の角の加工(面取り)が規則的で、面取りは中心線より南側の部屋に対して行っている。しかし、この四畳半は北側であるが、柱に面取りを施している。また、この部屋だけは天井があり、壁も色土を塗って仕上げている。
<石燈籠>(五重塔)
製作された年は中村家住宅の鬼瓦ヘラ書きと同じ貞享5年(1688)で、この頃庭園も造られたと思われる。江戸日本橋に住む中村清兵衛から海上輸送により、中村家へ贈られたものである。
江戸日本橋北壱丁目 貞享五戊辰天五月吉日 中村清兵衛 |
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<胞衣塚>(えなづか)
天正2年(1574)2月8日、徳川家康の次男(幼名:於義丸、後の結城秀康)がこの中村家で生まれた。母親は「お万の方」で、出産時の胞衣(後産)を埋めたのが胞衣塚である。塚上の梅は徳川家康のお手植えと伝えられ、数代を経ている。
明治17年(1884)に越前松平一門家が、塚の由来を記した胞衣塚碑を建立した。石碑の篆額(てんがく)は松平確堂(津山藩7代藩主斉民(なりたみ)の隠居名)の染筆、碑文は松平慶永(福井藩15代藩主)の撰文である。 |
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<長屋門>
江戸時代に式台や玄関と同じように、一定の格式ある家に建てられたものである。この長屋門は、棟木に、長屋普請 安永4年(1775)の墨書がある。家相図には屋敷南側に位置する。時期はわからないが、屋敷東側に移設した。
昭和55年(1980)、雄踏町(現浜松市西区雄踏町)の指定文化財になり、昭和59年(1984)、解体修復を行った。 |