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舟入とは、荷物の積み下ろしや船の方向転換を行う場所で、七之舟入は、二条から四条の間に9箇所作られたうちの一つである。現存するのは一之舟入のみであり、他の舟入は、七之舟入を含めて全て埋め立てられている。
古文書等によれば、寛永〜元禄年間のうちおよそ50年の間に使用の記録があり、寛永年間には、間口7間、奥行32間の広さがあった。
高瀬川は角倉了以が開削した物流用の運河で、慶長16年(1611)に一之舟入付近を起点として着工され、同19年(1614)に伏見まで開通した。水深が浅いことから、「高瀬舟」と呼ばれる船底の平らな船が使われ、ここから川の名前が付けられた。
盛時には百数十艘が上下して伏見を通じて大阪などの物資を運び入れ、京都の経済に重要な役割を果たした。木屋町筋には「木屋町」という町名の由来となった材木屋をはじめ、多くの問屋が立ち並んで賑わった。
下の画像は明治時代の高瀬川の様子である。 |
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明治以降、高瀬川は次第に舟運の目的を失い、大正9年(1920)に舟運は廃止されたが、清らかな水と桜や柳が美しい情緒溢れる景観が、多くの市民や観光客を楽しませている。 |
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