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<旧グラバー邸>
国指定重要文化財。建築年代文久3年(1863)
長い鎖国が終わりを告げ長崎・神奈川・函館3港は世界に門を開いた。同時に諸外国商人は大浦居留地付近に居を構え貿易を営みます。
これら貿易商人の一人英国スコットランド出身トーマス・ブレーク・グラバー(T.B.GLOVER 1838〜1911)の住居は、数多い洋風建築の中で独特のバンガロー風様式を残している日本最初の木造洋館として貴重な文化財です。
グラバーは若冠21歳で安政6年(1859)上海経由で渡来し、ベテランの外商たちの中にあって武器船舶などを取り扱う嵐の商人としての仲間入りをしたが、やがて、彼は自己の信念に基づく立憲君主制国家としての日本再建に外商としての立場を超越した活躍を見せ始めた。
それには日本の若いエリートたちに国際的な目を開かせることが先決だとして伊藤博文をはじめ数多くの若者の海外勉学の旅を斡旋している。
こうして維新動乱前後に多くの新時代の日本の指導者が続出したのは彼の努力に負う所が少なくない。
彼が期するところの立憲君主制の平和国家として日本が再出発することになるや、次に彼は産業立国の大方針を以て政府に協力し、造船、炭鉱、水産、鉄鋼、造幣、ビール産業の分野を開拓した。慶応元年(1865)大浦海岸にわが国初の蒸気機関車を試走させ、明治元年(1868)高島炭鉱を開発、また、同年海国日本の前途を計って小菅に修船場を設けたりと日本の新世紀にエネルギー溢れる努力をした。
この家には息子倉場富三郎、娘ハナ、妻おツルと共に住んでいた。 |
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トーマス・ブレーク・グラバーは、スコットランドのフレーザーバラで生まれ、初等教育をアバディーンで受けた。安政6年(1859)9月、21歳の若さで、上海から長崎に来航し、ジャーディン・マセソン商会に勤務した。その後、文久元年(1861)この商会が中国に本拠地を移すと、その事務を引き継ぎ、グラバー商会を設立した。慶応2年(1866)、薩摩藩士五代友厚に大阪で造船業を営む淡路屋の娘ツルを紹介され結婚し、長崎の西小島の私邸で長女ハナと長男富三郎が生まれた。
富三郎は、明治32年(1899)英国人商人ジェームズ・ウォルターと日本人女性、中野エイ夫妻の次女、中野ワカと結婚したが、二人の間に子供ができなかった。
ハナは、後にウォルター・ベネットと結婚し、現在グラバー氏の子孫として、ベネット家がその血筋を現在に伝えている。 |
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文久元年(1861)長崎でグラバー商会を開設し、西南諸藩との武器・艦船等の輸入、茶・絹等の輸出をするなど商会での経営は順調であった。又、幕末から明治維新にかけても倒幕の志士たちと深くかかわりがあり、晩年、日清・日露戦争の功績により日本政府から勲二等旭日重光章を外国人として初めて授与された。
<馬屋>
この建物は、グラバーの馬小屋です。この時代は屋敷の門から母屋までは細いアプローチで、かなりの距離があった。そのため「うまや」も母屋のすぐそばに建てられた。
馬屋裏の石垣に、木製の扉がある。この奥は1.5m、高さ2.0m、奥行き7.0mにわたって天然の貯蔵庫になっており、四季を通じてほぼ一定の温度を保っている。このことから、食料等を保存するために使用していたと思われる。 |
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<フリーメーソン・ロッジの石柱>
この門は、松ヶ枝町47(旧小曽根町海岸通り47番)の住宅で入口の門です。柱頭の彫刻は、フリーメーソンのマークで石工(メーソン)の使ったコンパスと定規を組み合わせたものです。
使用された石材が開港初期に居留地で盛んに使われた天然石であり、慶応元年(1865)頃、47番の借地人がイギリス人であったことから、当時イギリスから渡来したフリーメーソンの人々が最初に定着したこの地に彼らのロッジのシンボルとしてのマークをかかげたものと思われます。
フリーメーソンとは、中世ヨーロッパの石工の職業団体に始まり、それを母体に18世紀初めイギリスで結成され、啓蒙主義精神のもとに博愛・自由・平等の実現を目指す世界的規模の団体です。
<蘇鉄>
この大きな蘇鉄は、グラバー邸が建てられた当時、グラバー氏と親交のあった薩摩藩主島津候から贈られたもので、300有余年の樹齢といわれている。 |
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<三浦環> (みうらたまき 明治17年〜昭和21年)
日本が生んだ世界的プリマドンナ三浦環は、イタリアの作曲家ジャコモ・プッチーニが長崎を主題としたオペラ「マダムバラフライ」(蝶々夫人)を30年の長きにわたり世界各国で歌い続け、美しい名曲を通じて広く海外に日本婦人の愛の美徳を紹介した。
その功績をたたえるためプッチーニの肖像とともに、ゆかり深きこの丘に三浦環の立像を建立して永く後世に伝えるものである。
以下は、グラバー園に建つ歴史的建造物。 |
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<旧ウォーカー住宅>(Walker House)
この家の旧主は、英国出身の船長ロバート・N・ウォーカー氏の次男、ロバート・ウォーカー・ジュニアです。同氏は明治後期に建てられたと推測されるこの建物を大正4年(1915)に購入し、昭和33年(1958)に亡くなるまで居住していた。その後、同氏の妻シゲコ・メーベルが母屋の一部を市に寄付し、昭和49年(1974)にグラバー園に移築された。
ロバート・N・ウォーカー氏の兄、ウィルソンは1868年に来日し、グラバー商会の船長を努めた。明治7年(1874)には、郵便汽船三菱の監督船長に抜擢され、翌年、日本初の国際定期航路(横浜-上海)開設に重要な役割を果たした。その後、日本郵船会社(NYK)に勤務した後、横浜においてトーマス・グラバー氏と共にジャパン・ブルワリ・カンパニー(キリン麦酒(株)の前身)を設立。筆頭株主であると共に同社の支配人も勤める。1849年、家族共々、長崎に移り住み南山手10番地でクリフ・ハウス・ホテルの経営を行った。
ロバート・N・ウォーカーは、明治7年(1874)に来日。1876年に日本政府より甲種船長の免許を受け、三菱系列及び日本郵船に勤務。退社後、一旦英国に帰国。1898年「R・N・ウォーカー商会」を設立し、海運業を中心に貿易に関する業務を幅広く展開する、また、日本初の清涼飲料水会社「バンザイ炭酸水会社」を設立。1908年、次男のロバート・ウォーカー・ジュニアに会社を譲り、カナダに移住する。 |
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<旧オルト住宅>
国指定重要文化財。建築年代:1865(慶応元年)前後
この家にはイギリス人ウィリアム・オルト(W.ALT 1840〜1905)が1864(元治元年)〜1868(明治元年)の4年間住んでいた。石造円柱が列ぶベランダの中央に切妻屋根のポーチがあり軒高の堂々たる偉容を誇る幕末明治洋館遺構の中でも出色の建築です。イギリス人の設計で日本人小山秀之進が施行したといわる。
オルトは1859(安政6年)に来日、貿易商として製茶業を主に実業家として活躍した。妻エリザベス(1847〜1923)と二人の娘との4人家族で、明治元年までの4年間を長崎で過ごした。
その後大阪で1年半、横浜に2年間滞在している。オルトは病弱でしたので長崎にいる期間が短かったのですが、もっと長く長崎にいたらグラバーやリンガーをしのぐ居留地外商となり得たでしょう。
このオルト邸は1880(明治13年)から2年間、創立期の活水学院校舎として使用され、その後はリンガーの長男の手に移り長く住居として使われましたので別にリンガー(兄)邸ともいわれたりする。
<オルトと土佐藩士>
オルトは土佐藩との関係が深く、土佐藩はオルト商会から多くの船や武器を購入している。慶応3年(1867)4月に起こった「いろは丸事件」でも、オルト商会に相談したことがあったようです。岩崎弥太郎の日記によれば、5月22日の聖福寺での談判のあと、坂本龍馬は後藤象二郎・岩崎弥太郎らとオルトを訪ねている。
いりは丸事件:坂本龍馬らが乗ったいろは丸が紀州藩船と衝突し、沈没した。 |
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<旧リンガー住宅>
国指定重要文化財。建築年代:1868(明治元年)〜1869(明治2年)
この家にはイギリス人フレデリック・リンガー(F.RINGER 1840〜1908)が明治時代に住んでいた。幕末から明治になったばかりの頃の洋館の代表的な姿がここに見られる。わが国に例の少ない石造りの洋風住宅で重厚な中に優美さが漂っているのが特色です。
中国広東茶の熟練検査官だったリンガーは1864(元治元年)頃から長崎入りして1868(明治元年)11月、グラバー商会を退社してイギリス人E.Z.ホームと共同で大浦12番地に「ホーム・リンガー商会」を設立した。
その後、リンガーは茶の製造輸出を手始めに製粉、瓦斯(ガス)、発電などの事業に幅広い活動を始め、明治、大正、昭和初期を通じウラジオストックなど海外各港との貿易業務、各国商社代理業務に携わった。
居留地の英字新聞ナガサキプレスを刊行したり(昭和4年廃刊)、捕鯨業やわが国初のトロール漁業(グラバーの息子倉場富三郎と共同)、そして長崎市の上水道敷設などにも大いに尽力するなど長崎の殖産興業に力を注いでいる。
スウェーデン、ノルウェー、デンマークなどの名誉領事にも就任して、長崎の平和的な国際交流に力を注いだ。1907(明治40年)イングランドのノーフォークへ一時帰郷した。しかし、再び日本を訪れる日はなかった。
<旧スチイル記念学校>
この建物は、1887(明治20年)にアメリカのダッチ・レフォームド教会外国伝導局長スチイル博士が、18歳で亡くなった息子ヘンリーを記念するために寄贈した資金により開設された学校「スチイル・メモリアル・アカデミー」で、東山手9番地(旧英国領事館跡)に建てられていた。
以来、私立東山学院、私立中学東山学院、明治学院第二中学部東山学院と校名は改称されたが、英語教育と特色ある学風で昭和7年まで約50年の歴史を長崎の教育史に飾った。
その後、長崎公教神学校、東陵中学校、海星学園校舎と変遷して1972(昭和47年)に海星学園より保存のため長崎市が寄贈を受け、翌年現在地に移築し復元したものです。設計者はオランダの牧師といわれている。 |
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<旧自由亭>
この建物は、最初伊良林町の若宮神社にあって、次に本大工町、明治11年(1878)7月に西洋料理店「自遊亭(のちに自由亭)」として市内内馬町12番地に建築された。当時の三大料理店(小島郷福屋、西浜町清洋亭)のひとつで、内外の貴賓、地元高官などの社交の場に利用されていた。その後、明治20年(1887)に廃業、のち裁判所官舎となり、代々の刑事正官舎として使用されていた。
昭和48年(1973)に保存のため検察庁より長崎市が譲り受け、昭和49年(1974)現在地に移築し復元したものです。現在は、喫茶室として利用されている。
<旧長崎地方裁判所長官舎>
明治16年(1883)裁判所長官舎として旧八百屋町23番地に建てられた明治官庁建築のひとつで、当時の長崎で居留地外の市街地に唯一、洋風の様式を取り入れた住宅です。
明治の西欧化を反映した貴重な建物として、昭和54年(1979)に現在地に移築し復元した。 |