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<旧加賀屋敷御守殿門(赤門)>
東京大学本郷キャンパスの通用門の一つで、一般に「赤門」として周知され、東大を象徴する門として今日まで親しまれている。正式には「旧加賀屋敷御守殿門」である。
明治36年(1903)、医科大学の校舎建設のため、門を本郷通りに向かって15mほど移動して、現在地に位置する。同様な朱塗りの門は、震災や戦災の影響などから他に現存していない。昭和25年(1950)8月、国の「重要文化財」に指定登録された。
この門は、形式は三間薬医門で、屋根は切妻造本瓦葺き、左右脇に腰縦羽目板張り(明治以降昭和36年(1961)までは腰海鼠壁)本瓦葺の「繋塀」(左右各十二尺)と、唐波風造本瓦葺の「番所」(左右各桁行三間、梁間二間)がついてある。番所とは、武家屋敷の警備や見張りなどの役目にあたる番人が詰めた施設である。江戸城(現在の皇居)にも警備のため各問に設けられた御門番所が残されている。
赤門の屋根瓦の大棟には「三つ葉葵」、軒丸瓦等には「梅鉢」、大棟の鬼瓦には「學」の文様がみられ、徳川家と前田家、そして東京大学の歴史的な関係性が重層的に垣間見える。明治10年(1877)に創立された東京大学は130周年を迎えたが、赤門も建立されて180周年である。
文政10年(1827)徳川第11代将軍家斉の第21女溶姫は、加賀藩第13代藩主前田斉泰に輿入れした。赤門はこの時溶姫を迎えるため建てられたものである。 |
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<鉄門>
東京大学医学部と付属病院の創立は安政5年(1858年)、神田お玉ヶ池の川路聖謨の屋敷地に開設された種痘所にさかのぼる。種痘所は類焼により同年、下谷和泉橋通りに移転した。種痘所の門扉は厚い板を鉄板で囲い、鉄板の間を頭の丸い鋲釘で打ちつけ真黒に塗ってあったので、江戸の人々は種痘所を鉄門と呼んでいた。種痘所は西洋医学所、医学所、医学校、大学専校、東校、東京医学校と改称され、明治10年(1877)に東京大学医学部となった。
東京医学校は明治9年(1876)年に本郷に移転した。本館は時計台のそびえる洋館で、現在の付属病院外来棟玄関の辺りに建てられた。正門はその向かい、現在の南研究棟(通称赤レンガ)の位置(本地点より西に約30m)に設置された。移転当時は種痘所の門扉も使用されたが、やがて格子模様の鉄製扉に変えられた。
当時医学部正門は本郷キャンパスの正門であった。明治17年(1884)に法・文学部が、翌年理学部が神田一橋から移転してきたことにより、共通の公式門として本郷通り側に正門が設けられ、以後、医学部正門は鉄門と呼ばれるようになった。しかしながら、大正期に鉄門前の民有地が構内に取り込まれたため鉄門は撤去された。
東京大学医学部の創立百五十周年を記念し、鉄門をゆかりのある無縁坂上に再建した。 |
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