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<吉良邸跡>
吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西73間、南北35間で、面積は2550坪(約8400u)だったとされている。
吉良上野介が隠居したのは元禄14年(1701)3月の刃傷事件の数カ月後で、幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ、代わりにこの本所二ツ目に屋敷を与えている。
現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の86分の1の大きさに過ぎない。この公園内には、吉良上野介座像、邸内見取り図、土地寄贈者リストなどの他、吉良上野介を祀った稲荷神社が残されている。
<吉良邸跡(本所松坂町公園)>
この公園は「忠臣蔵」で広く知られる、赤穂義士の討入があった、吉良上野介義央(よしなか)の上屋敷跡である。
その昔、吉良邸は松坂町1、2丁目(現、両国2、3丁目)のうち約8,400uを占める広大な屋敷でしたが、年を経て一般民家が建ちならび、いまではそのおもかげもない。
昭和9年(1934)3月地元町会の有志が、遺跡を後世に伝えようと、旧邸跡の一画を購入し史蹟公園として、東京市に寄付したもので、昭和25年(1950)年9月墨田区に移管された。
周辺の石壁は、江戸時代における高家の格式をあらわす海鼠(なまこ)塀長屋門を模した造りで、園内には、元吉良邸にあった著名な井戸や稲荷社などの遺跡があり当時をしのばせている。また内部の壁面には義士関係の記録や絵画が銅板で展示されている。 |
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討ち入りに成功した赤穂浪士たちは、吉良邸裏門から裏隣りになる回向院(えこういん)に向かう。
<吉良邸正門跡>(上左画像)
この辺りに吉良邸正門があった。元禄15年(1702)12月14日、寅の刻(午前4時)の七つ鐘を聞いた後、正門から大石内蔵助以下23名が用意した梯子で邸内に侵入して、内側から門を開け、「浅野内匠家来口上」を玄関前に打ち立てて乱入した。
赤穂浪士は正門、裏門の二手に分かれて討ち入り、大声を上げながら、百人以上の大勢が討ち入ったように装った。これに動揺した吉良家家臣の多くが外に飛び出そうとした。しかし、弓の名手、早水藤左衛門らが侍長屋の戸板に次々と矢を射かけて威嚇し、出口を固められたため、飛び出すこともできず戦闘不能になったといわれている。
<吉良邸裏門跡>(上右画像)
吉良邸の裏門はこの辺りにあった。赤穂浪士討ち入りの際、裏門からは大石主税以下24名が門を叩き壊して侵入、寝込みを襲われ半睡状態に近い吉良家の家臣を次々と斬り伏せた。吉良家にも何人か勇士がいたが、寝巻き姿では鎖帷子を着込み完全武装の赤穂浪士には到底適わなかったようです。
広大な屋敷の中で1時間余り続いた討ち入りは、壮絶なものだったが、吉良家側の死傷者が38名だったのに対し、赤穂浪士側は2名が軽い傷を負っただけだった。 |
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赤穂浪士は、回向院で上杉の追っ手がきたらここに籠もって一戦を交える覚悟だったようだが、寺は門を閉ざしたままだった。そのため、回向院から隅田川に架かる両国橋の東詰の広場に向かう。上右画像は現在の両国橋だが、当時の両国橋は現在地より南側にあった。
<回向院>
明暦3年(1657)江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり犠牲者は10万人以上、未曾有の大惨事となった。遺体の多くが身元不明、引取り手のない有様だった。そこで四代将軍徳川家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立された。
有縁・無縁、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されている。 |
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現在の両国橋のたもとにある大高源五の句碑。
「日の恩や忽ちくだく厚氷」
太陽のお蔭で、積年の厚く張った氷が、たちまち融けました。我々赤穂の浪士一同、お蔭さまで本懐をとげて、積年の恨みを、すっかり晴らすことができました。
<赤穂浪士休息の地>
赤穂浪士が討ち入り後、泉岳寺への引き揚げ前に休息をした場所がここにあった広小路です。吉良家への応援に駆けつけてくるであろう上杉家の家臣たちを迎え撃つ心算であったとの説もある。休息後、大名との無益な衝突を避けるため、登城路になる旧両国橋を渡らず、一之橋、永代橋を経由して、泉岳寺へと引き揚げた。 |
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隅田川沿いに南下する赤穂浪士一行は一之橋を渡って堅川を越える。
<一之橋>
幕府は低湿地であった本所の開発にあたり、洪水の被害を最小限に止めるため排水路を碁盤目状に開削し、掘り出した土を陸地の補強、嵩(かさ)上げに利用した。排水路は隅田川に対し縦・横に開削された。
万治2年(1659)、縦の代表格、堅川の開削と同時に架けられ、隅田川から入って一ツ目の橋という意で命名されたのが、この一之橋で長さ十三間、幅二間半ほどあった。
堅川の両岸には全国から水運でもたらされる様々な物品を扱う商家や土蔵などが立ち並び、橋を行き交う人々も多く、大いに賑わった。
一之橋は、赤穂浪士が泉岳寺に引き揚げる際に最初に渡った橋としても知られている。 |
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一之橋を渡り、新大橋へ向けて進む。この辺りに当時幕府の御船蔵があった。新大橋の東詰で一時休止する。当時ここには駕籠屋のたまり場があり、傷を負った浪士が駕籠を頼んだ。当時の新大橋は現在の位置より少し南に架かっていた。
<御船蔵跡>
御船蔵は、江戸幕府の艦船を格納する蔵です。4890坪の広大な土地に大小14棟の船蔵が並んでいて、巨大な軍船「安宅丸」は船蔵の外に係留されていた。安宅丸の取壊しを機に供養塔が建てられたことから、ここは俗にアタケとも呼ばれ、広重の名所江戸百景「大はしあたけの夕立」にも描かれている。
明暦3年(1657)頃の「明暦江戸大絵図」には、すでに御船蔵がほぼ現在の位置にあり、川下の尾張屋敷「との間の堀に堂々たる天守を備えた安宅丸が描かれている。 |
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萬年橋を渡る。当時の萬年橋は、現在地より少し隅田川沿い、小名木川の河口よりに架かっていた。浪士たちは隅田川の景観を見ながら永代橋に向かったことだろう。今日の隅田川は高層建築が林立している。 |
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永代橋のたもとに「赤穂浪士休息の地」の石碑がある。碑文には『赤穂四十七士の一人大高源吾子葉は俳人としても有名でありますがちくま味噌初代竹口作兵衛木浄とは其角の門下として俳界の友でありました元禄十五年十二月十四日討入本懐を遂げた義士達が永代橋へ差し掛るやあたかも當所乳熊屋味噌店の上棟の日に當り作兵衛は一同を店に招き入れ甘酒粥を振る舞い勞を犒らつたのであります大高源吾は棟木に由来を認め又看板を書き残し泉岳寺へ引き上げて行ったのであります』とある。
永代橋は、元禄11年(1698,幕府の命によって「深川の渡し」にかわる木橋が架けられた。享保4年(1719)大破の折には、一旦廃橋と決められたものの、両岸住民の熱意がみのって民間維持の橋として再建された。赤穂浪士が渡った永代橋は、現在の永代橋より北側に架かっていた。 |
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永代橋を渡るといよいよ「江戸入り」となり、霊岸島を抜けて鉄砲洲に入る。亀島川に架かる高橋まで進む。当時、この橋の位置はもっと河口よりにあった。鉄砲洲通りを聖路加国際病院方面へ歩くと旧浅野内匠頭邸が見えてくる。 |
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聖路加国際病院の一角に「浅野内匠頭邸跡」の石碑がある。碑文には『常陸笠間(茨城県笠間市)藩主浅野長直(1610〜72)は、正保2年(1645)、播磨赤穂(兵庫県赤穂市)に領地替えとなり、五万三千五百石を領して内匠頭と称した。子の長友の代に分与して五万石となる。
ここから北西の聖路加国際病院と河岸地を含む一帯八千九百余坪の地は、赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった所で、西南二面は築地は川に面していた。
忠臣蔵で名高い浅野内匠頭長矩(1665〜1701)は、長友の子で、元禄14年(1701)、勅使の接待役に推されたが、3月14日、その指南役であった吉良義央を江戸城中で刃傷に及び、即日、切腹を命ぜらた。この江戸屋敷及び領地などは取り上げられ、赤穂藩主浅野家は断絶した。』と記されている。
上屋敷とは、公邸に当たり、中屋敷は家来の住まい、下屋敷は別荘に当たる。かつての藩邸を通り過ぎていく浪士たちの心情はいかがだったでしょうか。 |
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築地本願寺には間新六の供養塔がある。間新六は、泉岳寺に引き揚げる途中、自身の供養を願う書状と金子を槍に結びつけ、自分の供養料として本願寺の内に投げ入れたと伝えられている。切腹後、中堂又助(義兄:姉の嫁ぎ先)に遺骸は引き取られここに葬られた。泉岳寺には遺骸は埋葬されていない。
<間新六供養塔>
間新六光風(1660〜1703)は赤穂藩主浅野家臣間光延の次男として生まれる。元禄14年(1701)3月藩主浅野長矩が殿中刃傷事件を起こし、藩は改易となる。新六は父及び兄光興とともに仇討ちに加わり、元禄15年12月14日(1703年1月30日)に吉良上野介を討ち取り(赤穂事件)、麻布の長府藩毛利邸へ預かりとなり、切腹します。赤穂浪士の墓は主君長矩の墓のある高輪泉岳寺にあるが、新六は義兄中堂又助により、築地本願寺に埋葬された。泉岳寺にも新六の供養墓があるが、本願寺に葬られた理由は、檀徒であったのか、生前の意志によるものか不明です。
現在のものは、火災により焼失したものを天保5年(1834)に羽佐間宗玄が再建したものです。 |
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東銀座から旧東海道(第一京浜を)を西に「進む。 |
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大門を通り過ぎ、芝4丁目付近まで進む。冬は日の入りが早い。次第に暗くなってきて日の当たっている所と当たらない所とのコントラストがきつくなってくる。 |
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三田を過ぎ、札の辻の交差点にさしかかる。泉岳寺は近い。
この地は、江戸時代のはじめ、ここに高札場が設けられて布告法令などが掲示されたところから、札の辻と呼ばれるようになった。元和2年(1616)には、芝口門をここに建てて、江戸正面入口としての形式を整えた。この門は「日暮御門」(ひぐらしのごもん)といわたが、これはこの東がすぐ江戸湾に接し、海を隔てて房総の山々を望む、一日眺めてもあきない景色であったためといわれる。
その後高札場は、天和3年(1683)に南方の高輪(後の大木戸の場所)に移された。また、宝永7年(1710)に芝口門は新橋北側に建て替えられ、ここは「元札の辻」と呼ぶようになったが、明治維新後はまた「元」を略して「札の辻」と呼んでいる。 |
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目指す泉岳寺に着く。両国の吉良邸跡から泉岳寺まで約12q、23,000歩の行程だった。赤穂浪士は、この道のりを2時間で歩いたとか。吉良邸引き揚げが卯の刻(午前6時)頃、泉岳寺到着は辰の刻(午前8時)頃といわれている。
当時の道と現在の道とは少し異なっている部分もあり、また、やや遠回りして当時の道に戻ったりしているため。歩数は多くなっていると思われる。
泉岳寺の赤穂浪士が眠る墓へ行く途中に「首洗井戸」がある。ここで、吉良上野介義央の首をこの井戸にて洗い以て主君の墓前に供える。 |
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浅野内匠頭長矩の墓 |
大石良雄の墓 |
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浅野内匠頭長矩夫人(瑤泉院)の墓 |
大石主税良金の墓(右:十三回忌碑) |
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赤穂浪士の墓。2段上左画像の中で右が堀部安兵衛の墓。
赤穂浪士の墓地には討入り以前に自害した萱野三平の供養墓を含め48基の墓塔がある。この中で萱野三平と、遺骸を遺族が引き取り築地本願寺に埋葬されている間新六、参加した浪士の中で切腹をまぬがれた寺坂吉右衛門の墓塔は、遺骸の埋葬を伴わない供養塔になっている。なお、寺坂吉右衛門以外の浪士の戒名は全て最初の文字が「刃」となっている。 |
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