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頼山陽は、安永9年(1780)に大阪で、春水を父に、梅しを母として生まれた。春水は当時家塾青山社を開いていたが、広島藩の学問所創設にあたり、新進の朱子学者として迎えられたので、広島に移った。この敷地にあった屋敷に住むようになったのは寛政2年(1790)からである。山陽は、ここで育ち、漢学を修めた。
寛政9年、18歳の時に江戸に遊学し、1年後に帰藩したが、同12年には志を立てて脱藩し、京都で福井新九郎方に身をよせた。頼家では山陽をつれもどし、邸内の離れの一室に幽閉し、その期間は5年に及んだ。この離れが現在の頼山陽居室にあたる。
この間、山陽は著述に専念し、晩年に完成する「日本外史」の草稿を仕上げたといわれる。この書は、幕末から維新にかけての転換期に大きな思想的な影響を与えた。その後、廃嫡となった山陽は、神辺の廉塾を経て京都に上り、半生を送った。天保3年(1832)53歳で没したが、いっさい禄仕せず、もっぱら著述に従事した。詩文と書をとおして山陽の名は天下にきこえた。
居室は原子爆弾で焼失したが、昭和33年、広島県が復元した。居室を含む30坪余の地域は国の史跡に指定されている。 |
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日本外史 |
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<旧山陽記念館の手すり>
山陽記念館は、昭和10年(1935)に建設されたが、被爆によって大破し、平成7年(1995)に頼山陽史跡資料館として建て替え、整備された。
これは、山陽記念館のバルコニーの手すりで、被爆の状況を示す資料として一部を切り取り保存したものである。材質はテラコッタ(装飾用の素焼き陶器)で、当時の建築様式をうかがうことができる。 |
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