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<宇須岸河野館跡>
亨徳3年(1454)津軽の豪族安東政季に従って、武田信広(松前氏の始祖)、河野政通らが蝦夷地に渡来したという。
政通は、当時「宇須岸」(うすけし)と呼ばれていたこの地に「館」を築いたが、これが「宇須岸河野館」で、その大きさは、東西35間(約63m)、南北28間(約50m)と伝えられ、四方に土塁を築き、乾壕をめぐらしていたといわれている。この「河野館」に由来して、「箱館」という地名が生まれたと伝えられている。り、地名発祥の基となった(明治2年「函館」と改称された)。
永正9年(1512)アイヌとの抗争で、河野季通(政通の子)ら一族が敗れたため、箱館は以後100余年にわたって衰微したとの伝承が生まれた。
箱館は18世紀初頭(元禄時代末)から亀田川下流域からの移住が増加、これに伴い相次いで寺院も移転し、箱館港の繁栄が顕著になっていった。次いで、寛保元年(1741)には松前藩のこの地域の行政庁「亀田番所」が「河野館」跡地に移されて、繁栄への基礎が築かれた。
寛政11年(1799)幕府は東蝦夷地を直轄地とし、亨和2年(1802)箱館奉行が置かれ、この地に箱館奉行庁舎も築かれ、箱館に拠点を据えた高田屋嘉兵衛の活躍などもあって箱館は大きく発展した。箱館奉行庁舎は、明治に入ってから開拓使の庁舎となり、その後、北海道庁函館支庁庁舎となるなど、「河野館」跡は函館の行政の中心地であった。 |
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<諸術調所跡>
諸術調所とは、箱館奉行所の研究教育施設で、蝦夷地(えぞち)の開拓と警備に必要な人材育成を目指して、安政3年(1856)に設立された。
教授は五稜郭設計で有名な武田斐三郎(あやさぶろう)で、蘭学はもとより、測量・航海・造船・砲術・築城・化学などを教え、亀田丸でロシアまで操縦航海するなど実践を重んじた教育を行った。
元治元年(1864)、斐三郎が江戸開成所(現・東京大学の前身)の教授に転出するまで、門人多くを教育し、前島密(郵便制度創始者)、井上勝(鉄道制度創設者)など明治日本の動脈を作った優秀な門下生を輩出した。
同志社の創設者「新島襄」が箱館からアメリカへ密航したのも、諸術調所に入るために箱館にやってきたのに、斐三郎が江戸へ出てしまっていたための行動であったとも言われている。
内外共に多難な幕末期、開明的で進取積極の精神に満ちた人々と学舎があって、その成果を全国に及ぼした事実は、市民は誇りとするところであり、その魂は常に新しい時代の開拓にために行き続けることであろう。 |
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<沖之口番所跡>
江戸時代、松前藩は藩財政を支える施策の一つとして、福山(現松前)に船舶、積荷、旅人を検査して規定の税金を徴収する「沖之口番所」を創設した。
その後江差と箱館(18世紀のはじめ頃)にも設けられ、文政4年(1821)年沖之口役所と改められた。
明治2年(1869)に「海官所」、さらに翌年に「海関所」と改称された。同8年に北海道諸産物出港規則が制定され、出港税徴収が開始されると、「船改所」と改称され、その徴収業務を担当したが、同20年、出港税の廃止とともに船改所も閉鎖された。
なお、明治18年に船改所構内に函館水上警察署が置かれたが、船改所閉鎖後も存続し、大正15年(1926)に建てられた建物が現存している。(水上警察署は昭和27年に西警察署と改称し、昭和59年に新築移転した。)
函館郵便役所跡の記念碑もすぐ近くにある。 |