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1853年7月8日、浦賀沖に来航したアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官M.C.ペリーは、7月14日、ここ久里浜の海岸に上陸し、大統領フィルモアの親書を江戸幕府に渡した。翌年、神奈川において日米両国間に和親条約が締結された。この一連の出来事は、幕府支配のもとに鎖国を続けていた日本を、世界へと引き戻す原動力となった。
ペリー来航より48年後の1901年7月14日、米友協会の手によって日本開国ゆかりの地として、ここに記念碑が建てられた。碑文は 伊藤博文によるものである。
使節応接役・浦賀奉行は、戸田伊豆守氏栄(うじよし)(1799〜1859)であった。
<蒸気船の碑>
江戸幕府は約2百年にわたり外国との通商・交通を禁止する鎖国政策をとっていた。
その日本に対し、突如として泰平の夢を破るように、1853年7月8日(旧暦 嘉永6年6月3日)開国を迫る4隻の黒い艦隊が浦賀・鴨居沖に現れ、同艦隊は6日後に久里浜に上陸した。
この艦隊の指揮をとっていたのがペリー提督であった。江戸湾の守備に当たっていた諸藩の藩士や浦賀奉行所の人たちは、この大きな黒船の姿を見て、驚き動揺した。
開国を促す黒船の来航に、幕府要人はもちろんのこと、その威容を見聞きした人たちの驚きはどんなであったろう。その驚きを端的に表現したのが、この落首である。なお、「久里浜村誌」によれば、この落首は、老中 松平下総守(間部詮勝)号 松堂作ともいわれている。
泰平の ねむりをさます じょうきせん
たった四はいで 夜も寝られず
<ペリーの外交術>
ペリーの日本に対する態度は、以前に渡来したアメリカの艦隊の場合とは、全く違っていた。特派大使として、交渉の権限を持った外交官僚以外と会うことを拒否した。確固たる態度と自信。それが、日本の鎖国の扉を開ける名誉をペリーに与えたのです。
ペリーは、無理押しせずに、大統領フィルモアの親書に対する返事を直ちに要求しなかった。しかし、再度来航の時に備え、江戸湾の測量を怠らなかった。 |
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