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この地は、永禄3年(1560)5月19日、今川義元が織田信長に襲われ戦死した所と伝えられ、田楽狭間あるいは舘狭間と呼ばれた。
今川義元・松井宗信・無名の人々の塚があり、明和8年(1771)七石表が建てられた。文化6年(1809)には桶狭間弔古碑が建立された。また、戦死者を弔って建てられたおばけ地蔵・徳本行者念仏碑などがある。国指定史跡
<桶狭間合戦のあらまし>
東軍:駿河、遠江、三河の領主今川義元(42才)東軍所属の城、沓掛、鳴海、大高、兵数2万5千。義元この地に戦死。
西軍:尾張の領主織田信長(27才)西軍所属の砦、丹下、善照寺、中島、鷲津、丸根、兵数3千。戦闘2時間余信長の勝利。
<七石表の一>
今川義元の戦死した場所を明示する最も古いものである。元来、塚のみであったが、明和8年(1771)12月に鳴海下郷家の出資により人見弥右衛門黍、赤林孫七郎信之によって建碑された。
北面 今川上総介義元戦死所
東面 桶狭間七石表之一
南面 明和8年辛卯
<今川治部大輔義元の墓>
駿河、遠江、三河の国主、今川義元は西上の途次、永禄3年(1560)5月19日に織田信長の奇襲に遭い、ここで倒れた。ここには、その霊が祭られている。
以前、ここは塚であったが有松の住人山口正義が主唱し明治9年(1876)5月に、この墓を建てた。 |
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桂園派の巨匠、香川景樹が己の歌風を江戸に広めようと意気込んで出府したが、迎えられず、失意を抱いての帰途、桶狭間を通り、永禄3年(1560)5月19日、信長のためにこの地に没した義元の気持ちをくみ、自身の心に引き当てて詠んだ一首で「尾張名所図会」に載っている。
あと問へば 昔のときの こゑたてて
松に答ふる 風のかなしさ
<弔古碑>
桶狭間古戦場の戦記を記したものである。文化6年(1809)5月津島神社々司氷室豊長氏の建てたものである。 |
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「桶狭間古戦場跡」に隣接する高徳院に「今川義元本陣跡」の石碑がある。高徳院はその当時には存在していない。(明治になってからできた寺)
桶狭間の戦いの場所は名古屋市緑区の説(場所)もあるが、全体的にみればこの辺り一帯とみればいいのでしょう。 |