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<居留地図>
安政5年(1858)、江戸幕府は5カ国と修好通商条約を結び、翌年、長崎は横浜・函館とともに新しい時代の自由貿易港として開港され、東山手、南山手、大浦、下り松などを中心に約11万坪に及ぶ長崎外国人居留地が形成された。
赤い屋根の活水学院や青い屋根の海星学園がある丘陵地はかつての東山手の居留地で、居留地時代には領事館や学校、礼拝堂などが建ち、「領事館の丘」「学園の丘」「宣教師の丘」などと呼ばれていた。
また、南山手の丘陵地・居留地には旧グラバー住宅やリンガー住宅等に代表されるように主に住宅地として使われた区域で、長崎港を見下ろす眺望は抜群です。居留地にある洋風住宅のほとんどは海側にベランダが設けられ、港の眺望を優先した構造になっていた。
この二つの丘陵地に挟まれた中央の平地の区域は、大浦川の両岸に広がる大浦・下り松の旧居留地にあたり、商社や外国人向けのホテル、銀行、工場、倉庫、酒場など様々な業種の店舗が建ち並び、新たなビジネスチャンスを求める多くの外国人たちで賑わった。
現在でも、東山手・南山手を中心に幕末から明治初期の貴重な洋風住宅や洋館、石畳、オランダ溝、石標などが点在しており、時おり聞こえる船の汽笛や教会の鐘の音に遙かな居留地時代が偲ばれる。
<大浦東山手居留地跡>
安政の開国(1859)により多くの欧米人が長崎に居住するようになったため、大浦、東山手、南山手、出島などは外国人居留地となった。居留地は、日本の治外法権の地区で、外国人の自治領域だった。大浦・東山手界隈は、ヨーロッパ風の建物(ホテル、事務所、劇場、バーなど)で町並みが形成され、多くの外国人で賑わった。
現在、伝統的建造物群保存地区として、旧長崎英国領事館や東山手十二番館、東山手洋風住宅群などは建立時(明治期)の姿をとどめている。
<三角溝>
平石を2枚合わせてV字に組んだ側溝は、「三角溝」と呼ばれている。出島や外国人居留地であった南山手・東山手の道路脇の側溝として、今でもあちらこちらに残されている。これらは、居留地造成当時に造られた側溝であり、外国人居留地の遺構として大切に保存されている。この形の側溝は、水が少ない時でも多い時でも排水し易いように工夫されたものと考えられる。旧外国人居留地には、この他に半円形、階段状になったものなど様々な形の側溝がある。 |
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<居留地時代の地番境石>(3段目画像・出島)
安政6年(1359)、出島のオランダ商館は廃止され、領事館が設置された。さらに、慶応2年(1866)には外国人居留地に編入される。この石標柱は、居留地時代の出島の地番を示したものです。現在、敷地の東側から中央部にかけて、道路沿いを中心に7箇所の石標柱が残されている。
<居留地境界石柱>(4段目左画像・オランダ坂、右画像・グラバー園))
安政の開港により長崎市内に外人居留地が設定され、渡来した外国人たちは、その居留地の中で仕事に精を出し、また、生活を楽しんだ。この石柱は、外人居留地の境界を示す物です。2段目左画像は、オランダ坂にて。 |
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