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当地は古代の表記でいえば、平安京左京八条二坊十五町にあたる。中世には八条院町とよばれ、鋳物生産が多数行われた、いわば工業地帯だったが、戦国時代には農村化し、江戸時代までに葛野郡不動堂村が成立した。しかし、豊臣期に構築された、京都全域を囲い込む城壁・環濠「御土居堀」の郭内に位置していたため、「洛中」(都市)扱いを受けた。
幕末期、新選組はこの地域に屋敷を営んだ。池田屋事件や禁門の変などでの活躍や、局長近藤勇の政治的力量が高く評価され、慶応3年(1867)年6月、将軍徳川慶喜の直属の軍隊となった。これにあわせての新屋敷建設です。いわば最盛期の邸宅といえる。
近藤勇の甥で隊士だった宮川信吉の書簡によれば、同年6月15日に入居している。位置については、同書翰に「七条通り下ル」、幹部永倉新八の手記に「七条堀川下ル」とあり、当地付近に営まれたことは確実である。が、厳密な場所や規模、建物構造などについては信用に足る史料が少なく、不明である。価値の低い記録による復元・叙述は、極力避けなければならない。
同年12月の王政復古政変により、新選組はわずか半年で当屋敷を離れる。翌年1月の鳥羽伏見の戦いの敗北ののちは、関東へ下り、解体の道を歩む。当屋敷は維持されず早々に消失して、静かな農村に戻ったことでしょう。
が、明治になり、近くに七条停車場(現京都駅)が設置され、しばらくして地域一帯が京都市内に編入される。当地付近は、地域史上初めて京都屈指の「人の集まる場」となり、今に至る。歴史地理史学者 中村武生(解説文) |
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